幾百もの樹齢を重ねた木々から、蝉時雨が降る。
御影石を清め手桶に汲んだ水をざっと打ちかけると、涼風と共に幾重もの陽炎が立った。
お線香に火を灯し、そっと手を合わせる。今年も、この季節がやって来たのだった。
Sunset Love Song
一弥。
ただ一人の弟の名を小さく呟く。
今年はお姉ちゃん、貴方に報告したいことがあるんです。
夕刻が迫り、祈る彼女の頬が紅く照らし出される。
お盆の夜には、死者が帰ってくるのだという。
佐祐理はその言葉を信じるでも信じないでもなかったが、遠く風に運ばれてきた風鈴の音が、かけがえのないあの日々を佐祐理の前に運んでくれた気がしていた。
ちりん。
あの日も、風鈴が鳴っていた。
儚い響きを、佐祐理はベッドの中で聴いていた。
その音色をバタバタという喧噪が掻き消した。
あの子だ。
自分は今風邪を引いているのに、余計な厄介事を持ち込まないで欲しい。まだ小学3年生になったばかりの佐祐理は、弟への羽虫めいた嫌悪感をいけないと思いつつも抑えきれずにいた。
何しに来るんだろう。
足音は佐祐理の部屋に近づく程に小さくなり、扉の前で完全に止んだ。
それから暫く間を置いて、ギギィとゆっくり重い扉が開く音。
ようやく彼女は、けだるい瞼をこじ開けて音のする方を見た。
「一弥、どうしたのそれ」
弟は、洋服をびしょびしょに濡らしていた。両手にはバスルームの湯桶を抱えている。
「だめっ。こっち来ないで」
佐祐理は強く制止の声を挙げた。自分でも驚くくらいに大きな声だった。
弟の体がびくん、と跳ねる。
あ、ごめんね。その言葉を飲み込んで、無理にベッドから降りて駆け寄りたい気持ちをぐっと抑えて、佐祐理は言葉を続ける。
「わたしは風邪だから、こっちに来てはダメなの。それと、濡らしちゃった洋服はちゃんと家政婦の方に言って乾かして貰って」
そこまで言って、弟が口が利けないことを思い出した。自分がやってあげたいが、おとうさまに「なるべく部屋の外にでないように」と厳命を受けていたのだった。
弟は「うー」とも「えー」ともつかないくぐもった声をあげて、タライの中から白いものを掴み挙げた。
水の滴るそれは、雑巾だった。
ひょっとして――。
それを見て、ようやく佐祐理は弟の奇妙な行動の目的に気がついた。
一弥は自分の看病をしたいと思っていたのだ。
だとしたら、そのやり方を教えてあげるのが自分の役目ではないだろうか?
少しだけなら、いいよね。
自分の裡のおとうさまにそう言い訳すると、佐祐理は呆然と立ちつくしていた弟に優しく声を掛けた。
「あのね、それは雑巾だから。ちゃんとしたタオルを持ってきて」
口を半開きにして聞いていた弟は、すぐにうんうんと頷いた。ばたばたと走って部屋をでると、すぐにばたばたと戻ってくる。
「うん、それだよ。良くできました」
すぐに通じるとは思っていなかったのに。
佐祐理は、時々弟が意外な察しの良さを見せることに驚いていた。
もしかすると、言葉が分かっていたのではないのかも知れない。佐祐理の気持ちが伝わっていたのかも知れない。
「それでね、それをタライの中の水に浸けて、ギュッと絞るの」
こうやってね。と、佐祐理は小さな手でタオルを絞る真似をした。
ぎゅっ。
姉よりももっと小さな手で、弟はタオルを絞った。
何度も何度も絞った。
滴はタライの中に収まらず、佐祐理の部屋のフローリングを濡らす。
「それは、雑巾の方で拭くの」
びちゃ。水浸しの雑巾で床を拭こうとする。
「ごめんね。お姉ちゃんがちゃんと言わなくて悪かったね。そこは、雑巾を絞ってから拭くの」
一弥が床に濡れたままのタオルをぽんと放り出していることに気がついたが、佐祐理は何も言わなかった。
あまり一度に色々言うと、きっと一弥が混乱してしまうと思ったからだった。
「そうそう、上手だね。それで、そこのタオルを折ってわたしのおでこに載せて」
一弥の手つきは不器用ではらはらする程だったけれど、それでもきちんと四つ折りに畳んで佐祐理のおでこに載せた。
「ありがとう、一弥。よくできました」
寝たままで彼の体を抱き寄せる。頭を撫でてあげると、一弥はくぐもった声を上げて嬉しそうな笑顔になった。
おでこに乗っかったタオルはまだびちょびちょで、しかも一弥の手の熱が伝わって暖かくなってしまっていたけれど、それがなんだか心地よかった。
「あれ、一弥、まだ何かするの?」
正直、早くこの惨状をどうにかしたかった。一弥には雑巾やタライを置いていって貰って、後で部屋の水を拭き取ろうと思っていたのだ。
一弥は棚の上を指さす。
「あ、お薬?」
うんうん。激しく首を揺する一弥。
「でも、まだお薬の時間には早いから――」
一弥の顔に影がよぎった。それを見て、佐祐理の心に罪悪感が染みのように広がる。弟には笑顔でいて欲しいと思っていた。強くて正しい子は、どんな時でも笑顔なんだとおとうさまから教わっていたから。
それに、一弥の出来ることが増えれば、きっとおとうさまも喜んでくれるよね。
そう自分に言い聞かせて、彼女は笑顔を作った。
「うん、じゃあ、お姉ちゃんにお薬をちょうだい。高いから、椅子の上に載って取るんだよ」
うんしょ。と、声が出せたらそういいそうな感じで一弥は椅子を持ち上げ、佐祐理の足下の方にある棚の下へ持って行った。
椅子によじ登って手を伸ばす一弥。その手は、僅かに薬の載った棚には届かなかった。
背伸びをしてみる。それでも、薬には僅かに手が届かなかった。
無理もない、佐祐理でさえ椅子を使うか、人に取って貰う高さなのだから。
「一弥、やっぱり――」
彼は不安そうな顔で姉の顔を見るとううんと首を振った。
褒めて貰ったのが、本当に久しぶりだったので、またそうして欲しかったのかも知れない。
次に、本を四冊持ってきて椅子の下に敷いた。分厚い本だったけれど、高さが不揃いだったので椅子がぐらぐら揺れた。
「危ないから、別の本を探して」
知らず、声を張り上げていた。無理に開いた喉に鋭い痛みが走り、咳き込んでしまう。
思わず手を離してしまった弟を制して、佐祐理は言った。
一弥には、自分のやるべき事があるのだから、それをしっかり成しなさい。と。
その言葉を受けて、一弥はまた棚に向かって一生懸命手を伸ばし始める。
さっきの佐祐理の言葉は忘れて本は替えずに、ぐらぐらとした椅子の上に乗って。
かずや。と思わず声を掛けそうになるのを抑えた。
今、彼は一生懸命自分の為に薬を取ろうとしてくれている。それに横合いから口を出してはいけないのだと思った。
だから、代わりに「がんばれっ」と声を掛けた。
「一弥、がんばれっ」
ぐらぐらと揺れる椅子の上で、懸命に腕を伸ばす一弥。
もうちょっと、もうちょっとで手が届きそう――。
そして
一弥の体が宙に浮いた。
「かずやっ!?」
驚きだけがあった。弟が床に倒れる音も、彼が吼えるような声をあげて泣き出した声も、彼女の耳には入ってこなかった。
ただ、夢中でベッドを降りて小さな体を抱きしめた。
「ごめんね――」
自分はなんて滑稽だったのだろう。最初から自分でお薬を取ってくればこんなことにはならなかったのに。
やっぱりおとうさまの言うことを素直に聞いていれば、こんなことには――。
「本当に、ごめんなさい」
それは、誰に向けた謝罪の言葉だっただろう。
佐祐理は、その後自分がどうしたのか、弟がどうなったのかも覚えていない。覚えていないということは、それほど大事には至らなかったのかも知れない。
その時が、朝だったか夕だったかも、もう覚えていない。窓から光が差し込めていたのは覚えているから、きっと夜では無かったと思うけれど。
ただ、弟の小さな体の暖かみを感じながら、その時も風鈴が鳴ったことだけは覚えていた。
ちりん。
「佐祐理、そろそろ――」
愛おしいあの人の声が聞こえる。それに、佐祐理は呼び捨てで応えた。
「そうですね、そろそろ行きましょうか」
そう、今日弟に伝えたかったのは、この人のことだったのだ。
少し意地悪で、女性の心が分かっているのか甚だ怪しいけれど、それでも優しくて、どんな小さな事にでも一生懸命になれる人。
この人となら、きっと幸せを一緒に築いていけると思った。舞と同じように。
おとうさまは、人が何かを為せないのは努力が足りないからだと言った。だから、何かを成し遂げた人間にこそ幸せが相応しいと。
それは、きっと上に立つ人間としてとても正しい考え方なのだと思う。
だけど、一生懸命努力して、それでも叶わない人には何も与えられないのだろうか?
一弥はできることの数は人に劣後していたけれど、あんなに努力して、わたしの額の上にタオルを載せてくれたのに。
わたしはきっと間違っている。それでも、そう言う人の幸せが見たかった――
一面のグレーの向こうに、ぽっと浮かぶチェリー。それはいつか飲んだカクテルの色と同じ。
その発想がこの時期に不似合いだと思えた自分が、なんだか微笑ましかった。
「何を笑ってるんだ?」
「ふふ、内緒です」
最後に、一言だけお別れを言わせて下さい。
わたしが一弥にしたことは、もう償いなんてできないのだと思う。
それでも、貴方が生まれてきて嬉しかった。
貴方を知ることが出来て幸せだった。
貴方と同じ時間を過ごせて、本当に良かった――
「おい、今度は急に何泣いてるんだよ?」
心配そうに言ってくれた彼の優しさがとても嬉しくて
「……それも、内緒です」
佐祐理は、彼の腕にぎゅうっと掴まった。
感想
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