相沢祐一と美坂香里が浜辺につくころには、太陽はすでに西に傾いていた。
「おい、香里、向う見てみろよ。綺麗だぞ」
 突っ立ったままの祐一が、顔だけ香里のほうに向けて言った。
 祐一の指差す方向には、山の斜面を開墾したような畑と、竹やぶ、雑木林があり、さらに背後には小高い山が控えていた。
 金色に光がさしているのは、竹薮の前の畑の一角。
 そこだけスポットライトを浴びたように、神々しく浮かび上がっていた。
「白い服を着た女性かなにかがあの辺りを歩いていたら、もう、映画かなにかの一こまだな」
 見とれたように、祐一が言った。
 香里は一瞬、鼓動が跳ね上がるのを感じた。
 祐一の横顔に見とれたからではなかった。
 雪の中で、死を告げられた少女。
 雪と一緒に溶けてしまうといわれた少女。
 姉である自分が存在を否定した、妹。
 ――いっそのこと、本当に雪と一緒に溶けてくれたら楽だったかもしれない。
「畑のほうには風がないのに、竹藪の方はあんなにゆれてる」
 漠然と見ている限りはよくわからないが、じっと視線を定めていると、一本一本の竹が大きく動いている。
 しかも尋常なかしぎ方ではなく、近くに行けば竹の軋みが耳をつんざくであろうほどに、激しく左右に動く。
「地形の影響じゃないかしら」
 香里が言った。
「風が舞うんでしょうね。畑はシンとしているのに、竹藪だけがざわざわとしている。妙な感じね」
 祐一も少し首を縦に揺らし、香里の言葉を肯定する。
 季節が季節だけに、海の家は見当たらなかった。
 もちろん、夏のあいだはバラック建ての海の小屋が軒を広げているのだろうが、その痕跡も潮に流されてしまっているのか見出すことはできなかった。
「秋とか夏に来たら、どんな感じなんだろうな、この浜辺」
 祐一が深呼吸をしながら言った。
「夏は人出が多いだろうけれど、やっぱり十月、十一月になれば今みたいに寂れているのかな」
「さあ、どうかしら。でもこんなに気候の良い春でも人通りが少ないのだから、空っ風が吹く秋や、木枯らしの吹く冬なんて、おしてしるべし、ね」
「違いないな」
 転勤に次ぐ転勤で、祐一は親に海に、いや、旅行に連れて行ってもらうことですら稀なことだった。
 それでも昔、名雪と、秋子さんに連れられて海に来たような記憶はあった。
 記憶の糸を手繰り寄せてみようとこころみたが、その糸はあまりに細く、ほんの少し引いてみただけでぷつりと切れてしまいそうだった。
 あの冬だけでなく、あの街に関わる多くを、蓋をして閉じ込めようとしている――
 電車とバスを乗り継いで、海辺に出たのだろうか?
 現地でスイカを買うのは高いだけで、大して美味しくもないから、やっぱり風呂敷で包んで持って行ったりしたのだろうか?
 秋子さんは海で泳いだのかな。
 それとも多くの女性がそうするように、日に焼けることを嫌って、海の家か、あるいはパラソルの下で休んでいたのかな。
「ねえ、花火でもしない?せっかく海に来たんだから」
 唐突に香里が言った。
「こんな季節に花火なんて、売ってるか?」
 祐一が訝しげに尋ねた。
「コンビニエンスストアなら、季節に関係なく売っているでしょ」
 夏に比べれば、売場のスペースは狭くなっているでしょうけれどね、といって香里は笑った。
「うーん、そうだなあ」
「じゃあ、行きましょう」
 言って、香里は祐一の手をとった。
 なんとはなしに握られた手を握り返した祐一は、香里の行動に驚いていた。
 この時期は冬ほどではないにしろ、日が沈むのは早い。
 傾きかけていた西日はもうすっかり姿を消し、辺りは薄ぼんやりとした藍色に包まれつつあった。
 日は沈んでしまっても、まだ明るさまでがすべて奪われてしまったわけではなかった。
 彼女の手に引かれ、ぼんやりと見える足元に視線を下ろし、もうじき完全にあたりは闇に落ちるな――、そんなことを祐一は考えていた。
 香里が言ったように、スペースは狭いながらもたしかに花火を売っている一角があった。
 ばら売りされた花火は見当たらなかったが、ビニール袋に入れられた花火が所在なさげに、コンビニエンスストアの棚に佇んでいた。
「線香花火は入ってるか?」
 香里がビニール袋の中を覗き込む。
「ええ。入っているわよ。……ライターか、マッチはあるの?」
「こういうのは言い出しっぺの香里が用意するんじゃないか?」
「たしかに、そのとおりね」
 言って香里は、ライターの置かれている棚の一角に歩を進めていった。
 
  

 店の駐車場を通って、道路を横切り、海辺に下りていった。
 まだ五月でしかなかったが、風が心地よい。
 シュルシュルと音がして、火の筋が空に昇って行くのが見えた。
 ぱっと空を裂いたかと思うと、大きな音とともにはじけた。
 歓声が上がった。
 砂辺にはいつの間にか数人の男女がたむろして、花火を上げていた。
 砂は深く、靴の中に砂が入ってきた。
 二人は先ほどと同じように、手を繋いでいた。
 今度は祐一が香里を先導するように、手を引いていた。
 不意に香里は幼年に戻ったような錯覚に陥った。
 もし自分が栞を海の家に連れて行ったとしたら、さっきのあたしのようにではなく、今の相沢君のようにこうして手を引っ張ったに違いない――。
 祐一は香里の手を握り、渚の近くまで進んだ。
「ここら辺にしようか」
 祐一の言葉に素直に従い、香里は服が汚れるのも構わずに足を投げ出した。
 祐一は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに香里に倣い浜辺に腰をおろした。
 海の向うを見てみると、まるで繁華街があるように金色の明かりが輝いていた。
「なあ、香里」
 穴を掘りながら祐一が言った。
 なんのために掘っているのか、香里には分からなかった。
「なにかしら」
「栞との関係、どうするべきなんだろうな」
 香里は黙っている。
「それは相沢君が決めることよ」
 ややあって、香里は答えた。
 一気に燃え上がった恋ほど、また燃え尽きてしまうのも早い。
 栞の体調が回復して一年、惰性だけで祐一は彼女と『恋人』という関係を続けていた。 
 栞があの冬に溶けてしまえば、という考えは何も一人香里のものだけではなかった。
「そうだよな」
 祐一はビニール袋の中をまさぐりながら言った。
 祐一は袋の中からローソクを取り出し、今しがた掘った穴の底に突きさした。
「悪い香里、火を貸してくれないか」
 香里から手渡されたライターで祐一はローソクに火をつけた。
 炎は風にさらされることなく、静かに立ち上がった。
「香里からはなにか、お奨めとか、リクエストかなにかはないのか?」
「いいえ。特にないわね」
「そっか。じゃ、これから」
 言って祐一は針金を芯にした、長い花火を取り出した。
 香里がそれを受け取り、穴の中に入れて火をかざした。
 勢いよく火がつき、一呼吸する間もなくはじけ出す。
 水平にすると、紅い火を吹き、最後に青白い火を放って、消えた。
「意外に短いんだな。もっと長持ちするかと思ってたんだけどな」
 祐一はビニール袋から次の花火を取り出して、また手渡す。
「相沢君もしたら」
「いいよ、俺は。こういうのは、香里向けだろ」
 香里が一本持たせようとするのを、祐一は断った。
「子どものころの花火はもっと長く持ったような気がするのにね。気のせいかしら。高校に入学するくらいになると、小学校のころに昇った階段が、ぐっと小さくなってしまうような」
「どうだろうな」
 祐一は釣りざおのような花火を取り出した。
 針金の先に、風鈴のようなものがぶら下がっていた。
 遠くの外套の光を頼りに祐一は、風鈴の側面にある注意書きに目を凝らした。
「ここに点火するみたいだな。……俺が持っているから、香里が火をつけてくれないか」
「あら、あたしを実験台にするつもり?」
 祐一の提案を香里は撥ね付けた。
「……なら、ここを持っててくれ」
 渡された花火の端をしっかり握って、香里は少し腕をのばした。
 穴の中にあるローソクを使うことは、ことこの花火に関する限り無理なように思われた。
 祐一が火を身体でかばいながら、短い導火線に点火する。
 刹那、白い煙が吹きだす。
 そして次の瞬間、風鈴のような紙箱が、火花を噴出させながら音を立ててまわり始めた。
 驚いた祐一は、一歩、身体を後ずさりさせたが、紙箱を持った香里は後退さる訳にもいかなかったし、ましてや放り投げてしまおうとも思えなかった。
 狂ったように回転していた紙箱も、やがて火花を噴出し尽くし、やがてバン、という音とともに、破裂した紙箱からくす玉のような紙紐が垂れ下がることにより、終焉を告げた。
 沈黙がおりた。
「すごいぞ、香里。さすが俺が見込んだだけのことはある」
「……相沢君、逃げたでしょ」
「いや、逃げてなんかいないぞ」
「なら、どうして後退したのかしら」
「戦略的転進だからだ」
 言いながら、祐一は笑った。
 ローソクの火に、祐一の歯が映えた。
 辺りを見回すと、景気よく、連発式の花火やロケット花火が上がっているのが見えた。
 ヘッドライトの光が上下しているのが見えた。
 金色の光線が海辺の方に向けられた。
 砂の上で抱き合っていた男女の姿が浮かび上がった。
 男女は、一瞬驚いたように光の方に向き直った。
 瞬間、クラクションの音が耳をつんざいた。
「まったく、不愉快な四WDだな」
 祐一が呟いた。
 運転席の様子は、暗がりでわからなかった。
 ロケット花火を打ち上げていたグループも花火を中断しているらしかった。
「今度は線香花火でもやろうか」
 気を取り直したように、祐一が言った。
 どんな線香花火なのか、期待が裏切られそうになるのを香里は恐れた。
「風が少し出てきたみたいだけど、大丈夫かしら」
 祐一が取り出した線香花火は、赤い先端が少し膨らみ、二、三十本ずつ束ねられていた。
「ずいぶん、多いのね」
「すぐになくなるよ。線香花火だもの」
 祐一は穴の中の火が消えぬよう、身体で周りを囲った。
 火がつくのを見届けて、香里は顔の前に花火をつるす。
 花火は、棒状の火花を周囲に散開しながら、次第に赤い玉を膨らませていく。
 やがてその火花から、雪の結晶に似た赤い光が発せられた。
 サクサクという音を香里は、心地よさそうに聞いている。
 祐一が香里の顔に見入っている。
 火花はしかし、収縮しきる前に、ポトリと砂浜に落ちてしまった。
「残念ね。風のせいかしら」
 風は出ていたが、線香花火の火玉を落とすほどの強さではない。
 香里は線香花火の一束をつかみ、一本一本砂の上に並べていった。
 片方の端から、次々と火を点けていくつもりらしかった。
 子どものころ、心ゆくまで花火を楽しんだことはなかった。
 花火の煙でも身体の弱かった栞にとっては、喘息のもとになりかねなかった。
 そして姉である香里が、我がままを押し通すことはできなかった。
「香里って、線香花火が好きなのか?」
「そんなこともないけれどね。……気まぐれよ」
 数束あった線香花火のほとんどを香里が使い、祐一は数本に火をつけただけだった。
 香里は海の上の光を見つめていたが、思い出したように祐一のほうに顔を向けた。
 香里が口を少し動かした途端、背後で車のエンジン音が大きく唸り声を上げた。
 ヘッドライトが少し上向きに光を放っていたがが、エンジン音にもかかわらず、車は少しも前進しようとはしなかった。
 空しく暗闇に伸びるライトの光は瀕死の動物を連想させた。
「いくら4WDでも、こんな深い砂の中を走ろうとするからだよ」
 それみたことかといったニュアンスで、祐一が言った。
「そういえばさっき、なにか言おうとしてたけど」
「いいえ。やっぱりなんでもないわ」
「そっか。なら、そろそろ帰ろうか。はーっ、明日っから、大変だな」
「生徒会はずっと大変だったけれどね」
 ゆるやかな風が香里の頬をなで上げた。
 花火をしていた人間もすでに帰っていったのか、辺りからはすっかり人の気配が消え、闇が空間を支配している。
 車のライトは消えていた。
 エンジンの空回りする音だけがあたりに響いていた。
 祐一の横に立って香里は、心の中で祐一と呟いた。
 エンジン音にかき消された、彼の名前を。
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