彼女は雨の日が好きではなかったが、とくべつ嫌いでもなかった。傘をさすのも悪くはない。ただ、さした傘を閉じて、バスのなかに持ちこまねばならないのは、なんとなく億劫だった。
 ひどい土砂降りだった。お遣いでなければ、こんな日に外出しただろうか。好日なら、よろこんで散歩がてらに行ったかもしれない。でも雨だから、ふだん乗りなれないバスを利用した。雨を避ける客で席は埋まり、立つしかなかった。さいわい、立っているのは数人だけだ。
 彼女は服装に頓着しないほうだ。センスが悪いのじゃない。興味がない。休日であるにもかかわらず制服なのは、学生にとってこれ以上の正装はないと考えているからだ。奇抜なデザインは気恥ずかしくもあったけど、それには、若干のあきらめとともに、慣れた。スカートはひざ丈だ。階段の上り下りや、いたずらな風に悩まされることのないこの長さが、彼女には似合っていた。
 しかしそんな長さも、急な事故には役立たない。
 とつぜん急ブレーキが踏まれた。どんな事故だったかはわからない。視界は雨でさえぎられていた。ただ彼女にわかったのは、とつぜんの衝撃と濡れた床のせいで、思わず平衡をかき、ころんでしまったこと。そして、ころんだ拍子に、スカートがすっかりめくれてしまったことだった。
 床はびっしょりで、服は泥で汚れたが、そんなことも気にせず、彼女はまっさきに裾を整えた。顔を赤くして、周囲を見回す。彼女に注目している者はなかった。だれもが窓の外を見て、様子を気にし、人身事故ではなかったことに安堵の息をついていた。
 彼女はほっと胸をなでおろす。見た者はなかったようだ。
 ところがそれは早計だった。すぐに、座っていた客のひとりと目があった。彼女はその少年を知っていた。同じ学校の、一年先輩で、少なからぬいわくのある関係だった。ある出来事で深くかかわって以来、校内や、登下校時に、挨拶を交わし、ちょっとだけ会話することもある。顔見知り以上、友達未満の関係だった。しかし彼女にとって、異性とはそんな程度の関係もめずらしく、その意味では特殊な相手だった。
「大丈夫か」
 そんなふうに、彼は声をかけてきた。顔が赤く、こっちは見ているけど、目をあわせない。あきらかに彼は、彼女の下着を見たのだ。彼女は、相手以上に頬を紅潮させて、じっと黙り込んでしまった。
 彼はなんとか笑顔をつくって、前かがみに手を差し出した。彼女はその手をとらず、自力で立った。制服はひどく汚れていた。クリーニングに出さねばならないだろう。そんなことを、彼女は必死になって逃避的に考えた。
 彼はもういちど、彼女を安心させようとして笑った。そのとき運転手がアナウンスして、バスはこの場を動けないこと、十五分以内に代替のバスがやってくることを告げた。彼女はため息をついて、バスを降り、徒歩で帰路につくことにした。いまさら濡れることは気にならない。それよりも、スカートのなかを見られた相手とバスをともにするのが、いたたまれなかった。
 そう思って傘を手にした。
 傘は事故の余波で折れていた。
 それを見ていた彼は、自分の大きな傘を手に、言った。
「送っていくよ」
 まっさきに頭に浮かんだのは相合傘という単語だったが、下着を見られたきまりの悪さは、かえってその提案を彼女に拒ませなかった。あてつけがましく逃げるようで、気がひけた。拒絶が相手を傷つけはしまいかが気になった。けっきょくふたりは、雨のなかを、おなじ傘であるいた。
 彼は終始、紳士的だった。車道側をあるいた。彼女を傘で守ろうとして、自分は体の半分以上を雨にさらしていた。しかしこれだけ雨が強ければ、たとえ傘で頭上をすっかり覆っても、全身濡れることは避けられない。
「悪いな。役に立たなくて」
 そんなふうに彼は謝った。もとより彼女はそんなことを気にしていない。気にしているのは、ほんらい彼のとなりにいるべき、ある少女のことだった。その少女は逝った。逝ったにもかかわらず、彼女の娘らしい潔癖は、その少女以外に彼のとなりにあるべきではないと言う。
 彼女の直感が、彼と少女は男女の関係であったに違いないと囁いていた。彼女は晩稲だが、人の心のわからない野暮ではなかった。潔癖であるいっぽうで、少女らしい想像に身をゆだねることも、なくはなかった。
 ふたりはならんで歩くだけで、ほとんど会話もなかった。彼女はそれを気づまりに感じはしなかったけど、相手のほうが気づまりでないかと心配した。
 よく降りますね。こんなときに便利なのは天候の話題だ。そんなふうにはじまった短い会話は、けっして天候の話題を逸脱せず、彼のこんな言葉で一連の流れが締めくくられた。
「どうせならお菓子が降ればいいのにな」
 それを聞いたとき、彼女はひどく満たされた気持ちになった。かつての自分の妄言を相手が記憶し、たとえそれがからかいのためだったにせよ、時をこえて言及された。その事実に、彼女は身をそわそわさせるくすぐったさを覚えずにはおれなかった。もう彼女は、沈黙を気まずく感じることはなかった。
 雨中の道程も、なぜか驚くほど短く感ぜられた。三十分ほどの道が終わると、彼女は自宅の門扉をあけて、気恥ずかしげに、誰もいない玄関にするっと潜った。
 が、鴨居のしたで、彼女は戸も閉めず、じっと彼を見つめた。何も言わなかった。彼も彼女を、じっと見つめていた。そして言った。
「迷惑だったかな」
 いいえ。そんなことはありません。せっかくですから、あがってお茶でもいかがですか。
 彼女はそう答えようとした。しかしそのとき、いまはもういない少女の面影が、彼女のまぶたの裏で揺れた。口にしたかったことの代わりに、簡潔な別れを告げて、そのまま彼女は戸を閉ざした。
 それから彼女は自室にこもって、すこしだけ涙を流した。泣いたのではなかった。ただ、涙が流れた。なぜそんなことになるのか、自分でも長らく理解できなかった。ずっとずっと後になって、ふと、その理由を理解できるようになったとき、彼女はかつて自分が少女であったことを、やはり涙とともに想わずにはいられなかった。
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