空色の車体が、無骨な昼の日差しに映えている。持ち主にしては綺麗な、少し地味な自転車。もしかしたらあたしのために整備したのかもしれない。はじめてその自転車を見たとき、あたしは一人でそんなことを考えて、一人で照れてしまっていた。
自転車を運転するのは彼で、あたしは後ろにくっついている。ズボンを穿いてきて良かった、と心から思いながら。2人乗りなんて嫌よ、という言葉を見事に聞き流した彼のことだ。そういうことも一切考えてなかったのだろう。またがる時にバカ、と小さく言ってやったのに、案の定聞こえてはいないようで。それが少し悔しいような、嬉しいような気もしたけれど。
軽快な音を立てて、自転車は空気をすり抜けていく。景色がギコギコと後ろに流れて、小さく髪が舞い上がる。ぎゅっとくっついた彼の背中が、少しづつ汗ばんでくるのが分かる。呼吸も少し乱れている。
はじめて触れた男の子の背中は、とても広くて、とても暖かかった。息遣いや呼吸すら、そこから自分に流れてくる気がした。実際に入り込んできたそれのせいで、あたしの顔は真っ赤になったし、あたしの体温も上がってしまって。彼の体を抱きしめながら、だからあたしは、ずっと目を閉じていた。流れる景色を見る余裕なんて、全然なかった。
空色の自転車は、あたしと北川くんを乗せて、ぐらぐら揺れながら街を横切っていった。高校生の終わりごろ。まだ、20歳にもなっていなかったころ。
“空色自転車”
この喧騒に慣れたのはいつだったかな、とグラスを口に運びながら思う。歳を取るにつれて、結婚式が増えていく。それがここまで多いなんて、高校生の頃は考えてもみなかった。周りを見渡してみても、昔のクラスメートたちのほとんどは、既に誰かの夫か妻になっている。
ふ、とため息なのか微笑なのか、自分でも良く分からない吐息が口から漏れた。
「ひゅーひゅー。そこのお姉さん、色っぽいねえ」
「……相変わらずね」
ひょこひょこと近寄ってくるかつての級友は、昔とあまり変わらない笑顔。童顔なのはもう1人の方だとあのころは思っていたけれど、今ではそれが逆転している。ほんのりと赤くなった顔が、さらに表情を幼くしていた。
「名雪は元気? と言っても、この前会ったばかりだけれど」
「斉藤の結婚式か。しかし、続くなあ。みんな、何を好き好んで結婚と言う名の牢獄に囚われに行くのやら」
祐一、あまり家事してくれないんだよ。すっかりと母親の顔になった名雪は、そう言って頬を膨らませていた。あたしは頬杖をついて、専業主婦なら相沢くんみたいな夫を持つと苦労しそう、と同意した。同意しながら、自分がある意味のろけられているように感じられて、軽く苦笑いしてしまったけれど。
「斉藤くんの式に来なかったから、みんながっかりしてたのよ。あなた、妙なところでお祭り男だったから」
「仕事が忙しくてな。ま、今日は来れて良かったよ。もし今日駄目だったら、あいつに泣かれちまうさ」
「そうね」
今日の主役が、相沢くんの視線の先で人に囲まれていた。飲め、飲め。そんな大声が、さっきからずっと響いている。昔と変わらないキャラクターが、昔とは違う女の人の隣で、昔と同じように笑っている。
「北川のやつ、相変わらずだな」
「そうね。相変わらずね」
あたしと相沢くんは、妙に遠い目になってしまう。
高校時代の恋人同士が結婚する確率。恋人が結婚に至る確率。意外に多いんじゃないかとも、結構少ないのかもしれないとも思う。あたしたちとほぼ同じタイミングで、要するに別々の学校に通うようになって妹が相沢君と別れたと聞いたときは、本気でそのデータがほしいと思ったけれど。
会えなくなる時間と恋愛感情は、もしかしたら比例するのかもしれない。ひっそりと培ってきた恋心であろうと、命を懸けた大恋愛であろうと。電話口で愚痴る妹に、愚痴を言いたいのはこっちよ、と胸の中で毒づきながら、あたしはそんなことを考えた。
遠くの大学へ行っても、あたしたちは大丈夫だと信じていた。愛し合っているから大丈夫だと、確信に近いものを持っていた。気づいていなかったのだ。会えない、傍にいない、ということにさえ、慣れてしまえる自分の心に。その人以外が傍にいることが、むしろ自然になってしまえることに。
だから。変わらず相沢くんを好きだった名雪に、相沢くん自身も惹かれていったのかもしれない。そして、あたしと北川くんはそうじゃなかった。人の心は、不自然なほどに変わるものなのだ。
「名雪も来ればよかったのに」
その呟きに、相沢くんは軽くグラスを振って見せた。
「秋子さんに迷惑かけるわけにもいかないしな。北川の奴には悪いけど、ま、子供ってのはそういうものさ」
「随分と格好つけるようになったのね」
結婚とか子供とか。そういうものの現実感にも、この喧騒と同じように慣れてしまう。よく分からない、ではすまされなくなる。
「……そう言えば、栞は元気か?」
ふと、相沢くんがそっぽを向いた。
「元気よ。相変わらず男、男うるさいけど。あら、最近は会ってないの?」
「子供できてからはな。そっか、元気か」
だったら良かった、と幾分穏やかに笑える彼は、とうの昔に大人になったのだろう。
そう言えば、ダブルデートをしようなんて話もあった。結局実現しなかったけど、楽しくなっていただろうと思う。姉妹と兄弟みたいな友達。あのころ、一番自然だった組み合わせ。
「しかし北川の奴。タキシードの似合わなさは天下一品だな」
もう、今となっては想像もつかない。そうね、と同意して、あたしは不毛な思考をひとまず打ち切った。
はじめてのデートの夜。普通なら前日の夜に眠れないものだけど、あたしは逆に、その前日よりその日の夜の方が寝付けなかった。目を閉じれば瞼に彼の笑顔が映り、かと言って目を開けば彼の背中の感触が蘇る。二人乗りのことばかり思い出されてしまう。枕を抱いて悶々として、結局寝付けたのは明け方になってからだった。
だから。その時の、感触までクリアだった夢は、今でもよく覚えている。
木星の輪の上で、彼が空色の自転車を漕ぐ。あたしは後ろに座って、彼のお腹の辺りに両手を回して、離れないようにしがみついている。大きな大きな木星の周りを、滑るように走り抜ける。
2人ともが、ここには空気の抵抗がなくて、あたしがそんなにしがみつく必要もないことを分かっている。だから、あたしは顔をしっかりと彼の背中にくっつけていたし、彼も軽快にペダルを漕いでいた。緩やかな下り、なだらかな上り。木星の輪は細く、だけどアスファルトのようにぐらぐら揺れたりはしない。水晶の上を走っているような、どこか硬質な感覚。
あたしは本気で思っていたのだ。彼と一緒なら、このまま宇宙の果てまで行ってもいいと。2人で空色の自転車に乗って、ずっとずっと、永遠の彼方へ。天の川を渡り、星雲をくぐり抜け、銀河をがたがた走り抜ける。彼と一緒なら、どこにいたってきっとあたしは幸せになれる。宇宙の風に吹かれながら、彼の背中を抱きしめながら。夢の中ですら、あたしはそんな夢みたいなことを考えていた。
今になって思う。自転車は、ずっと輪を回っていただけだと。どこに行くでもなく、どこを目指すでもなく。ただ、その時を楽しむためだけに、その場所で留まっていたのだと。
それでも、間違いなくその気持ちは本物だった。傍にいるだけで、どれほど幸せを感じていられたか。胸の高鳴りも、唇の震えも。今では過去になってしまったけれど、心にはしっかりと刻み込まれている。
それを基準にしているから、あたしは結婚できないのかもしれない。
今でも引きずっているのだろう。北川くんの結婚の知らせを聞いたときに、妙に裏切られた気がしたのは。本当に、あたしは気持ちの切り替えが下手だ。人の心は変わるものだと、既に頭に刻み付けているというのに。
もう苦笑いも出ずに、あたしは一気にグラスの残りを飲み干した。少しだけ、空色が目にちらついていた。
「美坂、久しぶり。来てくれたんだな」
相当飲まされたのか、彼は顔を真っ赤にしている。新郎新婦は披露宴の間は退屈だと言われているけど、彼はそうでもなかったようだ。その微妙な呂律に、隣に控える新婦が、くすりと手を口元に当てていた。
「ほら、しゃんとしなさいよ。ハジかくのはあなたじゃないんだから」
「ははは。やっぱ美坂だ。それ、すっげー美坂らしいよ」
あのころに似た笑顔。幾人かが間に入っているのに、いまだにその笑顔に心は揺らぐ。それは本当に少しだけだけれど、誤魔化しようだってない。初恋が一番強いというのは、多分事実なのだ。
頭でも心でも分かっているのに。それとは違う場所が、少しだけ熱くなっていて。
妹の病気のときも、あたしは過去に引きずられていた。それと同じように、あたしは初恋も引きずっている。空色の自転車の後ろに、あたしはいつまでもしがみついている。
笑顔の北川くんの隣には、あたしの知らない女性がいる。相沢くんの傍にも、名雪がいつも寄り添っている。誰かには、誰かが。あたしだけが、昔の面影を追いかけてはいけない。だって、あたしは美坂香里なのだから。後を追うのは趣味じゃないのだ。
「北川くん」
真面目な顔をして、少しだけ背伸びをして、北川くんに顔を近づけた。ん、と赤い顔のまま、北川くんの動きは止まる。喧騒が、少し遠のく。
人との距離は変わる。だけど、いつかそれは自然になる。今はこの距離。息が軽くかかる距離でも、一緒に自転車には乗れない。
軽く顔をしかめてみせた。そして、怪訝な顔の北川くんに、ゆっくりと手を伸ばす。少しだけ、切なくなる。
だから。
「……てっ」
ぴんっ、とおでこを軽く指ではじいた。一瞬遅くおでこを押さえる北川くんに、今度はにこりと微笑む。昔のようにじゃなく、今のように。
「彼女、幸せにしなさいよ」
今は、いつか過去になる。未来は、いつか今になる。だから。過去を見るより、未来を見るほうをあたしは選びたい。
昔、妹に教えられたのに。北川くんと別れるときも、そう思ったのに。
「幸せにするさ、誰よりも」
はは、なんか照れるな。そう言いながら、本当に照れたように頭を掻く彼とは、もう何もないのだから。
空色の自転車から、あたしも降りないといけない。自分にそう言い聞かせて、でも、少しぐらい涙ぐむのはいいかな、なんて思った。
感想
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