奇跡は後ろから通り抜けていく


 アルコールが程よく身体の中を巡りウトウトと舟を漕いでいると、誰かの手が肩に触れるのを感じ、俺は目を覚ました。
 見慣れぬ場所に一瞬頭が混乱したが、すぐに視界を覆った栞の顔や周りにいる連中の顔を見ることで記憶が回復した。

 ここは栞の家。今は大学の夏休みの真っ最中で、先日香里から美坂チーム全員集合しようという電話があったのだ。
 栞と香里の両親が同窓会に出席してその日は一晩家を開けるというので、久しぶりに5人そろって夜更かしお泊りパーティーを開こうという話だった。

「祐一さん、眠くなりました?」
「ん、ちょっとな」
「それじゃ、どうぞここを使ってください」

 そう言って栞はにっこりと笑い、正座した状態で自分の太ももをポンポンと叩く。

「おおっ、ひざまくらのお誘いか。うらやましいぞ、相沢」と北川。
「見せ付けるわね」と香里。
「祐一、ほら、私たちに遠慮しないでいいから」と名雪。

 三人が好奇の目で俺を見つめる。

「バカヤロ、そんな恥ずかしいこと人前で出来るかっ」

 俺は頭を振って立ち上がり、ベランダの窓に向かって歩き出した。

「あー、祐一さん、どこ行くの?」
「トイレはそっちじゃないよ、祐一」
「違うっ。ちょっと眠気覚ましに夜風に当たりに行くだけだ」

 夏の真っ盛りではあったが、今日は風も出ているせいで外は心地よい温度だった。ベランダにはいくつかの観葉植物が並んでいる。ぼんやりと空を見上げると星がチカチカと瞬いていた。俺は大きく深呼吸をして火照る身体を内側から冷ましていく。背後からは楽しそうな話し声や笑い声が断続的に聞こえていた。

 ――いいな。こういう時間。

 あの時奇跡が起こらなければこんな時間を過ごすことはなかった。栞と出会ってあのことを経験してもう何年も経つが不意にこんなふうに胸がつまって、涙腺が熱くなることがたまにある。しかしこれが幸せな人間が受け入れなければならない痛みであるというのなら安い代価だ。

 しばらくすると背後に人の気配を感じた。

「栞か?」

 と振り返るとそこにいたのは想像していた人物ではなくその姉だった。

「悪かったわね、栞じゃなくて」
「いや、別に悪くはないけどな」

 夏なので香里はそのウェーブのかかった長髪を後頭部の一箇所でまとめていた。

「戻ってこないからちょっと様子を見に来たのよ。ベランダで寝てるんじゃないかって」
「栞は?」
「先に寝ちゃったわ。今、ソファで横になってる。……何よ、やっぱり栞に来て欲しかったんじゃないの」
「そりゃ、なんだかんだ言って、俺は栞に惚れているからな」

 目を夜空へと逸らして沈黙する。

「ねえ、相沢君、これからもずっと栞と付き合っていくつもり?」
「ん? 何だその質問は」

 香里の真意を測りかねた俺は彼女の顔を見つめ直し訊き返す。妹をこれからもよろしく、という意味だろうか。それにしては言葉に負の意味が混じっているような気がした。

「少なくとも俺は栞と別れるなんてこれっぽっちも考えたことはないぞ。いずれは香里の義理の弟になることだって考えていないわけじゃない。何でそんなことを訊くんだ?」
「あの子、うちの母親に似てちょっと夢見がちなところがあるから、相沢君にはそばにいて支えていてほしいの」
「夢見がち?」
「ええ。相沢君もよく聞くんじゃないかしら。栞が想像の話を現実に持ち込んでごっちゃにしてしまうこと。ちょっと不安になってしまうのよね。あたしが現実主義者だから特にそう感じてしまうのかも知れないけど」
「ん? まあ確かに栞はドラマの話とか『もしも』の話とかよくするけど、そんな不安とかいうことはないだろ。むしろそれは栞のいいところじゃないか? 香里の云う不安って、例えば、どういうときに?」
「いつだったかしら。どういう話の流れだったか忘れたけれど、以前栞は自分が誰かの夢の中の登場人物なんだ、って語ったことがあるのよ。そして夢の中だからどんな願いも叶えることができて、自分はそのおかげで助かったんだって」
「ああ、その話なら俺も前に栞に聞かされたことがある」
「そう。それで、相沢君はどう思った?」
「うん、いや、全て鵜呑みにしたわけじゃないが、面白いと思ったし、この世には科学で説明のつかないことがいくらでもあるんだから、そういう考え方もアリじゃないかと思った」

 そして心の片隅に『それは真実だ』と信じている俺がいる。

「……そう。やっぱりあたしが過敏になってるだけかしら」
「香里はいったい何を気にしているんだ?」

 香里は手を組んで前方に伸ばし、ん、と一息ついた。

「名雪も知らないことだけどね、以前、あたしのうちは家庭崩壊しかけてたのよ」

 さらっととんでもないことを言う。

「おい、そういうことを俺に話していいのか?」
「あまり人前でペラペラ喋るようなことではないわね。でも、相沢君は栞と末永くお付き合いしてくれると言ってくれたし、敢えて信用させてもらうわ。だから相沢君も真面目に聴いてほしいの」
「ん、ああ」
「そこのアロエが生えている壺があるでしょ?」
「アロエ? これか?」

 俺はトゲトゲの分厚い葉を指差す。綺麗な模様の大きな壺に土がつめられ、そこからその植物――アロエが生えていた。

「実はね、その壺、150万円もしたのよ」

 ふふ、と香里が笑う。

「ひゃくごじゅうまん!? そんな高価なもの、植木鉢代わりにしてるのか?」
「いいのよ。どうせ元々大した価値のある壺じゃないし、大事にしておいたからといって幸運を呼ぶわけでもないしね」

 幸運を呼ぶ……高価な壺……そして家庭崩壊……。

「あ、霊感商法……!?」
「そんなところ。何年か前にお母さんがまんまと騙されてしまったの。『身内に重い病気の人がいるのは悪い霊が云々』って言葉で栞のことを考えずにはいられなかったんでしょうね。その当時、いつまでも栞の病状がよくならないからお母さんも精神的に不安定だったのよ。だから今思えばお母さんを一方的に責めることもできないんだけど。あのときはお父さんが本気で怒っちゃって物凄い大喧嘩になったの。あたしもショックであの頃は家に帰りたくなかった」

 前に俺は栞のお父さんに挨拶したことがあるが、怒るところなど想像できない程とても穏やかで優しそうな人だった。

「それが香里が神秘的なものを信じない理由か」
「信じない、という訳じゃないのよ。栞がお医者さんもあきらめた病気を克服して現在に至っているのはまさしく奇跡だと思うわ。ただね、『こういう要因があったから奇跡を起こせたのだ』って奇跡に理由や条件を求めるような話はどうしても受け入れられないの。奇跡ってあくまで『起きる』ものであって『起こす』ものではないはずよ。少なくとも壺とかハンコとかを買って手に入れるようなものじゃない」
「それは初めから騙すために用意されたインチキだからだろ。栞の言う奇跡はそういうのじゃなくて、一心に願う気持ちが奇跡を呼んだ、というものだ。栞は俺とのあの『恋人契約』が終わる直前『死にたくない』と告げてくれた。それは栞の本音であって意思のあらわれだったんだと思う。だから俺も栞に生きていて欲しいと思った。それらが奇跡を起こした、と考えていいじゃないか」

 香里は眉をひそめ、小さくためいきをついた。

「願っただけで病気が治るなら苦労はないわ。あたしは前に栞と同じ病気になった人のことを何人も調べたことがあったんだけど――そうよ、栞を助ける手がかりを得たいと思ってそういうことしてたの――、患者さんは誰もが全力で生きたいと思っていたし、患者さんを愛している人たちは生き続けてほしいと思っていた。勿論お医者さんは全力で助けたいと手術に望んでいたわ。けれどそれでも命は失われてしまったの。この人たちの生命への欲望が栞より弱かったなんてとても思えない」
「……」
「それどころか、あたしなんて現実逃避して栞という妹がいないフリまでしていた。栞もそんなあたしを怒りもせず悲しげな表情をするだけだった。あたしの調べた人たちよりもはるかに奇跡なんて起こりえない状況だったのよ。でも、現実に栞には奇跡が起こった。どうしてなんだろう、と考えて、結局、奇跡が起こるのに人の気持ちは関係ない、ということを悟ったような気がするわ」
「……それは寂しい考え方じゃないか? 科学的に考えれば確かに因果関係は見出せないかもしれないが、そうだと思うことでより幸せになれることだってあるだろう?」
「ええ、それはわかる。わかるわ、けど……あー、あたしの言いたいことはそういうことじゃないの」

 香里は目を閉じ、ややうつむきがちになって頭を掻く。ポニーテールがふるふると揺れた。

「ええと、そうね、現実方面から考えてみましょうか。相沢君があの時してくれたことは……栞と恋人になって、栞に『生きたい』という気持ちを起こさせてくれたことね。そして栞とあたしを仲直りさせてくれたことももちろんあるわね。あの時たとえ奇跡が起こらなくても……あまり考えたくないことだけど栞に奇跡が起こらなかったとしても、相沢君が栞の心を幸せで満たし、あたしの愚かな過ちを正してくれたことは意味のあることだったと思うの。あたしは『奇跡』よりもそういう『人間が出来ることを出来るだけすること』に感謝したいのよ」

 そう言って俺を見つめる香里の目は随分と優しく、俺の胸はついドキドキと弾んでしまう。アルコールが入っているからとは言え、ちょっと栞に申し訳ない。

「『人事尽くして天命を待つ』か。確かそんなことわざがあったな」

 と、普段使わない言葉を使って俺は動揺を抑えた。

「そ。じゃあ、今度はその逆のパターンを考えてみましょうか。もしもあのままあたしが栞を無視し続けていたら今度は『奇跡』が起こっても栞とあたしの仲はギクシャクしていたままで素直に奇跡を幸福に変換することはできなかったでしょうね。あたしが奇跡が起こる原因を解析することを恐れるのはそこなの。もし奇跡の原因が解ってしまうと人はどうしても奇跡を期待してしまうようになるでしょう? そうしたら本来人間がすべき努力がないがしろにされてしまうんじゃないか、ってそう言いたいの。相沢君が栞と恋人契約を結んだことが奇跡の原因だというのが真実だと仮定しましょうか。でも、奇跡を起こしたいから相沢君は栞と契約したわけではないでしょ。っていうかそんな理由でくっついたのならあたしは相沢君を許せない」
「そりゃ、もちろんだ。……ん、香里の言いたいことはわかった。人間は人間に出来る範囲のことだけに目を向けるべきだってことだな。だからこそ『奇跡』が起こったときの喜びを味わうことができる、と。その為にも『奇跡』のメカニズムは敢えてブラックボックスにしまいこんだままにしておこうと」
「そう。……ああ、相沢君と話をして良かったわ。同じ事を直接栞に言おうとしたけど、どうにも夢がないとかあるとかの話になって会話がすれ違っていたの。相沢君はいい感じにあたしと栞の中間の立場の人だから、あたしの言いたいことも伝えてくれそう。やっぱり相沢君は栞の恋人になれてよかったんだわ」
「そりゃ、どうも。お姉ちゃん」
「やめてよ、気持ち悪い」

 俺たちは見つめ合って、同時に吹き出した。
 するとその時、バン、と大きな音が聞こえ俺たちは背後を振り返った。

「「栞?」」

 栞がむくれた顔でこちらを見ていた。どうやらわざとベランダの窓を叩いてこちらの気を引きたかったらしい。

「むー。祐一さんとお姉ちゃんたら、いいムードでツーショット決めてぇ。浮気はだめぇ!」
「栞、酔ってるな」
「酔ってません。話をそらさないでください。ううー」

 うずくまる栞。

「お、おい、しっかりしろ」
「相沢君、そこのアロエの葉、どれでもいいからちぎってちょうだい」
「え?」
「アロエの葉をすりつぶして飲むと悪酔いに効くのよ」
「そ、そうか……役に立ってるじゃないか。この壺」
「そうね。役に立ってるわね」

 俺は言われたとおり葉をちぎると、栞を抱きかかえ、香里の後に続いて居間に戻る。ベランダの窓を閉めようと振り返る直前、背後から夜風が俺の身体を吹き抜けていった。


おわり
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