きっと、ボクは今日という日を忘れない。
だって、今日はボクの特別な日だから。




そして、始まりの季節へ





いつも見慣れている街路樹の向こう側に、鮮やかな青に染まった空が見えた。
隣には祐一君。ボクの一番好きな人。
まだ葉のつく気配すら見えない木々の隙間から漏れてくる光を眩しそうに手で遮りながら
ボクに話しかけてくる。
その横顔が、少しだけ大人びて見えたのは気のせいじゃない。

「あっと言う間だったよ。この三年間……」
「そっか。高校生活はどうだった? 」
「うん、すごく楽しかった。ただ、祐一君と一緒の学校に行けなくて残念だったかな」
「まあ、それは仕方ないだろ」

そう。ボクと祐一君が再会してから、もう四年の年月が流れていた。
ボクは祐一君達が卒業してから一年間、猛勉強して祐一君達が通っていた高校に入学した。
その頃、祐一君は大学の一年生。
同じ学校で顔を見合わせる事は無かったけれど、休みの日には二人で遊びに行った。
そんな中、笑いあって、時々ケンカして、でもすぐに仲直りして。
生きる事に不器用なボクだったけど、新しい風に揺られながら、祐一君と同じ時を感じていた。


「……え? 」


ふと、足を止める。
風に乗って何処からか、懐かしい、忘れかけていたメロディが流れてきたから。

「……どうした? 」
「この、歌……」

祐一君が不思議そうに耳を澄ませる。
そして、少ししてから「ああ」と小さく呟いた。

「懐かしい歌だな」
「……うん」

ボクの心のドアを叩くように、胸の奥で響いているこの歌は、お母さんがよく歌ってくれていた。
最期の時さえも、泣きじゃくるボクの頭を撫でながら、消え去りそうな声で歌ってくれた。
お母さんがいなくなって、ボクの前に祐一君が現れてから、ボクはいつも守られていた。
一人で心細くて、壊れそうな心を、祐一君が、名雪さんが、秋子さんが、いつも優しく包んでくれた。
本当に嬉しくて、言葉で表せないくらいに感謝の気持ちでいっぱいだった。
この前、その事をみんなに言ったら、「そんな大した事はしてないよ」って言ってくれた。

うん。きっと、みんなだったらそう言うんだろうな、って思ってた。
でもね、違うんだよ。みんながボクにしてくれた事は、そう簡単に出来る事じゃないんだ。
例えばの話、今ボクに出来る事で、祐一君達みたいな優しい人を守れる自信はボクには無い。
ボクは不器用だから。生きる事も、何をするにしても。
おまけに七年間の遅れもあって、こんなにも遠回りをしちゃってるから。
きっと、一生かかってもみんなみたいにはなれな……い、い、い…………。

「いたたたた!! 何するんだよっ、祐一君っ!」
「おっ、やっと気づいたな」

引っ張られていたらしいほっぺをさする。熱を帯びたその部分は間違いなく赤くなってる事だろう。

「うぐぅ……。人が真剣に悩んでるのにそういう事をするのは良くないよ、祐一君」

そのセリフを聞いて、祐一君は本当に意外そうにボクを見ていた。

「祐一君? その目はどういう意味かな? 」
「いや、だってあゆに悩み事があるなんて……」
「ボクにだって悩みくらい……! 」

言いかけた言葉の途中で、祐一君の手がボクの頭に優しく置かれた。

「どうせ、お前の事だ。また「自分は不器用だから……」とか何とか考えてたんだろ? 」
「……! 何で……? 」
「お前の考える事くらいすぐに解るさ。単純だからな」

そう言って、ぽんぽんと二回、ボクの頭を撫でるようにたたく。
単純って言われたのが少しだけ癪だったけど、祐一君の真剣な表情に、ボクは何も言えなかった。

「……いいじゃないか。不器用でさ。人間は不器用だから、器用になろうとする。
始めから何でも器用に出来たら、きっと人生なんて面白くないぞ」
「でもっ! ボクは……」
「「みんなを守れるほど強くないから」か? 」
「!!」

また考えてる事を読まれた。もう驚きで声も出ない。
祐一君はそんなボクを見て、呆れたような、それでいてとても真面目な表情でボクを見つめた。

「なあ、あゆ……」
「う、うん……」

祐一君の顔がすぐ目の前にある。
後ほんの少しでも近付いたら、キスしちゃいそうな位だった。
ややあって、静かに祐一君の口が開く。

「俺は、お前の事が好きだ。いや……愛してる」
「え……。 ゆ、祐一君、急にどうしたの? 」

普段、あまりそういう事を言わない祐一君にそんな事を言われて、心に小さな動揺が浮かぶ。

「あゆは、どうなんだ? 」
「い、言わなくても……、祐一君、知ってるでしょ? 」
「俺はあゆの口から聞きたいんだ」
「うぐっ……」

普段が普段だからだろうか。
ボクも祐一君と同じで、あまり祐一君の事を好きだとか、そういう事を言わない。
だから時々こんな場面に遭遇すると、途端に頭の中が真っ白くなってしまう。
緊張のあまり、唇が震えてうまく開いてくれず、たっぷり数秒の間を置いてやっと開いてくれた。

「……ボクも、祐一君の事が好きだし、あ……、愛してるよ」

瞬間。 祐一君の顔が笑顔に変わった。
優しくて、暖かくて、凄く安心できる、とびっきりの笑顔。
ボクの大好きな笑顔だった。

「祐一、君……」

そっと抱き締められる。それなのにとても力強い。

「それでいいんじゃないか? 」
「え? 」

かけられた言葉の意味が解らず、ボクは聞き返した。

「俺達はお互いに好き合っていて、愛し合っているからお互い側にいるんだ。
守られているから自分も守らなければいけないとか、そういう義務感を持っているなら今すぐ捨ててくれ」
「そんな事思ってないけど、で……」

続きは言わせてもらえなかった。祐一君の口で塞がれたから。
聞こえるのは自分の胸の音だけで、他は何も聞こえなかった。
やがて、どちらともなく唇は離れ、祐一君は言う。

「……人生はさ、誰だって初めてで当たり前なんだ。初めてだから失敗もするだろうけど、
それは恥ずかしい事じゃないんだ。自分のペースで頑張ればいいし、背伸びする必要なんてないんだ」
「……うん」
「だから、今誰かを守れないからって、悩む必要なんてないんだよ」
「う……ん……」

心が震えるっていうのは、こういう事を言うんだな、って思う。
どうして、祐一君の言葉はこんなにも心に響くんだろう。
涙が、出ちゃうくらいに……。

「泣くなよ。今日一日で何度泣くつもりだ? お前は」
「うん。ごめんね、祐一君」

目尻に溜まった涙を祐一君が指で拭ってくれる。
「謝るな」と言いたげで、ちょっと困ったような、優しい表情が印象的だった。
頬から伝わってくる温もりをもっと確かに感じたくて、涙を拭ってくれた左手にボクの手を重ねた。

「……あ」

祐一君の手に触れた時、祐一君が何かに気付いたような声を上げる。
視線の先にあるのは、ボクが左手につけている腕時計。

「そろそろ行かないと遅刻だな」

言われて時計に目をやると、確かに急がないと遅刻しそうな時間になっていた。
互いに伸ばした手を取り合って、二人で走る。
目覚めてからの四年間、これでも体力は上げたつもりだったけど、やっぱり全力で走り続けるのは辛い。
次第に息が切れてきて、ほんの少しだけ苦しくなる。

でも、辛いって思えるのも、苦しいって感じるのも、それはみんなボクが生きているからこそなんだ。
こんな日常の中の一瞬ですら、大切な思い出になるほど、それは素敵な事。

だから、ボクは忘れない。
人間だから、いつまでも変わらずに全てを覚えているのは無理かもしれないけれど、
それなら今日一日だけでもいい。

今日一日の、起きてから今まで、そしてこれから起こる事。
生きている瞬間全てを、深く深く思い出に刻み込んで、ずっとこの心に残したい。

祐一君の言葉、そして笑顔。
今日の思い出は、そのほとんどがそれで埋め尽くされると信じている。

だって、今日はボクの、そして祐一君の特別な日。
ボクの、卒業の日。
そして……。

「あゆ」
「何? 祐一君」
「その指輪、よく似合ってるぞ」
「……うん。ありがとう」

ボク達が、結婚する日。



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