爽やかな風が通りを吹きぬけていく、と同時に子供たちの歓声が彼女をさっと追い越していった。
「ふうっ……」
 日差しが眩しい。佐祐理は風になびいた髪をそっと手で押さえた。せっかくの休日、同居している親友とゆっくり過ごそうと思っていたのに、彼女は自分を置いていそいそと出かけていった。
 原因は言われなくても分かっている。確かに彼女を応援するつもりではあったけど、寂しいものは寂しい。
「どうして、ここにいるんでしょね」
 自嘲気味に呟いてそっと目を細めた。ひとりであてもなく外へさ迷い出した自分が、まるで巨大な迷路の中にはまりこんでしまったように思えてくる。
 両親にわがままを言って家を出て、約束した親友とふたり暮らしを始めて。初めは楽しかった。毎日が新しい発見だった。
 机を並べているだけでは知りえない彼女の微笑ましい一面も知ることができた。例えば、慣れない洗濯で買ったばかりのワイシャツに色移りさせてしまったり。だけど新しい生活にも慣れ、日が過ぎていくうちに、彼女の中に占める自分の割合がどんどんと小さくなっていくことに嫌でも気づかされた。
 代わりに大きくなっていくのは相沢祐一という年下の恋人。彼女はもう自分を必要としていないのではないか。被害妄想と言われてしまえばそれまでだけど、自分の殻に閉じこもっていた少女は、ぎこちなくだけど確かに前に進んでいる。その証拠に、口数が増えたわけではないけれど雰囲気が驚くほど柔らかくなった。不意にこぼれる笑みは、同姓の自分から見てもはっとするほど魅力的だ。
 そんな彼女を喜ばしいと思う自分がいる反面、つまらないと思っている自分もいる。否定すればするほど顔に浮かんでくるのは薄っぺらな笑顔。笑顔という仮面を張りつけた自分。
 本当に欲しいのはそんな見せかけの笑顔なんかじゃない。自分に枷をはめていても、奥底では願っているのに。
「佐祐理だって……笑いたいのに」
 期待していたのに。
 なにに?
 後ろ向きな自分に?
「あ〜もう、今日はどうしますかねっ」 
 佐祐理は何かを振り捨てるかのように大声をあげた。
「はあ……」
 そして長々とため息。自分にはそんな資格なんてないことに、いまさらのように打ちのめされる。
「やっぱり家でおとなしくしていようかな」
 悄然と体を回したその時、
「……倉田先輩?」
「ふえっ?!」
 突然呼び止められて、佐祐理はまたくるりと体を回す。そこには、自分から声をかけてみたものの、その後のことをまったく考えていなかったらしく、所在なさげに少女が立ち尽くしていた。ふたりは複雑な表情を浮かべたまま、しばらく見つめ合う。
「……こんにちは」
 佐祐理は思わず苦笑いを浮かべていた。



「ええと、名雪さんでしたっけ?」
 おぼろげな記憶を頭から引っ張り出す。たしか祐一がお世話になっている家の娘だったはず。ときおり話題に上る名前、舞がひそかに羨望の眼差しを向けている少女。
「はい、そうです。お久しぶりですね。倉田先輩はどこかにお出かけなんですか?」
 目の前の少女はうなずくと佐祐理に笑顔を向けてきた。
「あっ、そんな他人行儀みたいな言い方じゃなくて、もっと普通で構いませんよ……それと、佐祐理のことは佐祐理と呼んで下さいね」
「あ〜、ええと」
 困惑げな名雪にぱたぱたと手を振りながら佐祐理が微笑む。とりあえず話題は自分から振ったほうがいいだろうと、佐祐理は視線を名雪に集めた。
「ふふっ、名雪さんもお出かけですか?」
 肩から大きめの鞄を提げている。中身はほとんど入ってなさそうだ。
「はい、本屋へ行こうと」
 思ったんですけど、そう続ける名雪にぽんと手を合わせる。
「本屋さんですかー、いいですね。名雪さんはどんな本が好きなんです?」
「そうじゃなくて……わたしは、その……勉強しないと」
 照れたように頬をかく名雪に、佐祐理はまあとうなずき、一年前の自分と重ね合わせようとして、すぐにやめた。
「名雪さんは勉強熱心なんですね、偉いです」
「あはは、わたしは今からやらないと、みんなに追いつけませんから」
「祐一さんの方はどうなんですか?」
「え」
 どうしてと聞きたそうな名雪にしまったと思ったが、出てしまった言葉は取り消せない。
「顔を合わせても、あまりそういう話をしませんから」
 取り繕うとする言葉が、余計に名雪の表情を翳らせる。不安定な感情が自分に伝わってくる感じがして、佐祐理はあいまいな笑顔を張り付かせた。
「わたしも、あんまり祐一には……」
 ああ、そうだ、私は目の前の少女の気持ちなんてちっとも考えたことなかった、佐祐理は初めてこの少女に後ろめたい気持ちを抱いた。
「祐一さんは酷い人ですね」
 思わず責任転嫁しかける、すぐに過ちに気づいて佐祐理は苦笑した。誰が悪いわけではない、でも、今までの選択を違ったようにしていたとしたら。
「え?」
「あ、いえ、なんでもありません」
 表情はそのままに、先ほどと同じようにぱたぱたと手のひらを振って否定する。たらればを悔いても仕方がないのはよく理解しているつもりだった。
「佐祐理も本屋さんへ行こうと考えていたところなんですよ。ご一緒しませんか?」
 すぐに別れてしまうのは何か惜しいような気がしていた。自分で思っているよりも人恋しいのかもしれないと佐祐理は思った。



 ぱらぱらと洋書をめくりながら名雪の姿を視界の端にとどめておく。名雪は名雪で真剣な表情で問題集を手にとってはあれこれと見比べていた。
 果たして過去の自分はそんな気持ちで過ごしていたのだろうか、ため息をつきたくなる。いつだって自分は真剣になったことがないのではないか、受動的な自分がつくづく嫌になる。
「はあ……」
 おかげで気になっていた小説の文字が目に入ってこない。仕方なく本をパタンと閉じると佐祐理はレジに向かった。どうせこれからひとりの時間が増えるのだから、ここで全部読んでしまう必要はないだろう。
 そして佐祐理が店を出てから10数分後、
「おまたせしました」
 そう頭を下げて名雪も店から出てくる。
「いえ、佐祐理も夢中になっていましたから」
 それでも申し訳なさそうにしている名雪に、佐祐理は何か声をかけようとして、はたと困った。これからどうすればいいのか分からない。
 こんなときに祐一でもいてくれたら困ることはないのに。付き合わせるべきではなかったと、今更のように後悔の念が押し寄せてくる。自分たちにいい感情なんか持っているはずがないのに。彼女に苦痛しか与えていないのではないか、マイナス思考しか浮かんでこない。
「どうかしました?」
 そんな暗い表情に気づいたのか、名雪は佐祐理の顔を覗き込んできた。
「名雪さんは……佐祐理たちのこと恨んでいるでしょうね」
「え、いきなりなにを……?」
「祐一さんが来なければ良かった、そう考えたことはありませんでした? 来なければ、期待感という夢を抱いたまま祐一さんのことを待っていられたと」
 こんな場所で言う言葉ではないと、でも、いつかは聞いておかなければならないことだと、佐祐理は一気に吐き出すことにした。まるでそのために名雪に会ったのかもしれないと思い始めるほどに、佐祐理はすらすらと言葉を並べる。
「そんなことは……」
「ないと言い切れます?」
 そこでいったん言葉を切った。名雪の反応を窺うようにまっすぐな視線を向けると、名雪は少しの間自分の足元を見つめる。
「最後の大会が始まるんです」
 小さな声。けれど、確かに彼女の強い意志を感じた。それが何か眩しく見える。
「今はそのことで頭が一杯……確かに、それが終わってしまったらどうなるか分かりません。こうやって参考書を買うのも気休めでしかないのかもしれない」
「名雪さん……」
「ところで、倉田先輩も何か悩み事が?」
「え?」 
 逆に聞き返されて言葉が詰まる。佐祐理が意図しない問いに頭を悩ませている隙に、名雪はさっと腕を取った。
「走りましょう」
「ええっ?」
「頭が空っぽになるまで走るんです」
 そう言うと、名雪はいきなり佐祐理の手を取ったまま駆け出す。戸惑う佐祐理もお構いなしにどんどんとスピードを上げていく。話しかける余裕もなく、しかたなしに佐祐理もまた足を速めた。
 いつしか名雪の手が離れる。それでも佐祐理は足を止めずに後を追った。
「すごいですね……結構本気で走ったんですけど」
 息一つ乱さずに数百メートルを駆けると、立ち止まって後ろを振り向いた名雪の顔が驚きに彩られた。
「佐祐理は、こう、見えても結構、運動神経には、自信があるんです、よっ」
 一方佐祐理は息を整えるのに必死で、それでも得意げに胸を張ろうとする。
「疲れました?」
「え?」
 名雪が微笑んでいた。だからか、差し出される手をなんとなく掴んでしまう。
「じゃあ、行きましょう。疲れたら甘いものを食べるのが一番ですっ」
 そう宣言して先を歩く名雪は、今度は手を離すことはなかった。



「おいしい……」
 百花屋は休日ということで、いつもの制服が席を占めることはない代わりに、普段よりも華やかに飾られている。
 ふたりはその中をすり抜けるように案内された席に着き、名雪が勧めるままふたりは同じものを頼んだ。
「ですよね、イチゴサンデーはこんなにおいしいのに、みんな分かってくれないんです」
 目の前で幸せそうにスプーンを動かす姿に、新鮮な驚きが佐祐理の心を満たす。思えば、舞は決してそんな表情を見せてくれたことはなかった。
「ふふ、そうですよね。女の子なんだから、甘いものたくさん食べないと」
「はい?」
「マザーグースも仰ってますよ、女の子はお砂糖でできているって」
「えーと、それって確か続きがありましたよね」
「スパイス、それとステキなものばかり……ステキなものってなんでしょうね?」
 すくい取った生クリームを舌の上で転がしながら佐祐理が微笑む。
「えっ? えーと」
 スプーンの上で溶けていくアイスクリームのように、なんとなく残っていたふたりの壁は跡形もなく溶けて、いつしか会話の花を咲かせ始めていた。
「ほんと、勝手ですよねっ、好きな人を見つけたらぽいっですもん!」
「だよねっ!」
「「あははははっ!」」
 時ならぬ笑い声に、周りの客が何事かとこっちを振り返る。そんな視線すらふたりは気にならなくなっていた。



 絶好のスポーツ日和の空の下、佐祐理たちは少し離れたグランドの応援席に腰掛けていた。目的はもちろん名雪の応援。それに限らず選手たちの戦いのすばらしさに皆固唾を呑んで見守っていた。
「うわあ、本当に応援に来てくれたんだ」
 競技を終えたばかりの名雪がこちらに気づいて駆け寄ってくる。タオルで汗を拭いながら顔をほころばせている彼女は、すべてをやり遂げたとその姿が語っていた。
「走っている時の横顔、とても凛々しかったですよ」
 佐祐理の素直な賞賛にかすかに頬を染める。
「ああ、普段寝ぼけてるやつと同一人物だとはとても思えなかったな」
 祐一も続けて軽口を叩く。がすぐに、その口がぽかんと開くことになった。
「惜しかったですね、なゆちゃん」
「なゆちゃん?!」
 わけが分からないとふたりの顔を見比べる祐一。
「応援してくれてありがとう、さゆちゃん」
「さゆ……」
 舞も言葉を失う。
「知らなかったんですか? 佐祐理たちはさゆちゃん、なゆちゃんって呼び合うくらい仲良しになったんですよ、ねー」
「ねー」
「……いったいいつのまに仲良くなったんだ?」
「さあ……?」
 困惑げに顔を見合わせる祐一と舞を尻目に、ふたりは心から愉快そうに笑う。その笑顔は確かに今までのそれとは違っているようだった。

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