ウマの蹴爪が地面に突き立つ強さが失われはじめていることは、もう隠しようもなかった。律動は淀み、それが否応なく騎手の不安を駆り立てる。彼は自分が豪胆であることに自身があった。しかし追っ手から必死で逃げているこの状況で、不安を覚えないとすれば、それは不感症にすぎない。
 手綱を握りしめながら、オボロはひたすら死者の騎行をつづけた。
 追っ手は迫る。速い。予想以上の速さだった。主人の意思に忠実に仕えようとする健気なウマを、オボロはさらに労苦へ駆らねばならなかった。
 開けた草原を、森にむかっていっさんに駆けつづけた。
 ウマの目は血走り、肌は汗で濡れ、口からはよだれを垂らし、身も世もなく歯と歯茎を剥き出しにして懸命に走った。それでもオボロは容赦しない。さらにウマを追いたてた。しかしもはや加速は得られない。
 焦った。
 オボロの馬術は、むろん楽しみのためではない。戦闘のために必要な技能だから、必死で習得した。しかし、戦うためのでもって、いまは逃走している。首をねじ曲げて追手との距離を確認した。もう、どれほども余裕がなかった。
 追手は巨大な熊だった。被害者たちからホオジロと名づけられてたこの熊は、巨体のわりに敏捷で、頭がよく、貪欲で、人間の生活の場を荒らすことが多く、じっさい人間こそ彼ごのみの食料だった。オボロの集落がこの熊から受けた被害は、けっして壊滅的ではなかったけれど、見過ごせばオボロの長としての権威が失墜してしまう程度には深刻だった。
 オボロは課せられた責任から逃げなかった。
 罠にかけるのがいちばん安全ではある。しかしホオジロはその頭の良さでもって、たいていの罠を見ぬいてしまった。もし罠にかかったとしても、力任せに罠を破壊して、逃走した。誰かがオトリとなって、熊のまえに身をさらすのが、唯一の効果的な方法に思えた。
 そしてその任につくべきは、やはりオボロをおいてほかになかった。
 責任逃れをする責任者など、もはや責任者ではないのだから。
 何度か熊はオボロに追いついてきた。すると彼は、馬上で刀を巧みに振るって熊の手を斬りつけ、爪先をしりぞけた。熊はそのつど萎縮して、オボロから少し遅れるのだが、すぐに闘争心を呼び起こして小癪な雲霞を追いなおそうとする。獲物をしとめるまではけっしてあきらめないその姿は、熊より悪魔に近かった。
 オボロは焦り始めた。大地を蹴るウマの蹴爪が、だんだん力を失っている。ウマは、速さはあるが、耐久力は無限でない。
 限界が、近い。
 目の前にはもう、森と、森深くへ通ずる隘路が見えている。そこへ逃げ込むのがオボロの目的だった。いや、それは逃走ではない。彼にとってそれこそが、唯一で最大の攻撃だった。
 前から隘路が、後ろからは熊が、オボロに迫ってくる。恐い。もし掴まれば、熊はその爪で彼の華奢な身体などウマごと裂き、おいしく食べてしまうだろ。それはごめんだ。
 オボロの顔に、ふと影がさす。ついに森の隘路ヘ飛び込んだ。彼はまた後ろをふりかえって、彼我の距離を確認――
「!」
 ――しようとして、とっさに馬上で身体を伏せた。それまで首のあったところを、ホオジロの凶腕が横から薙いだ。もう背後にいた。逃げるのに懸命で、恐れを殺すのにせいいっぱいで、そんなことにもオボロは気づかなかった。
 気づいてたときには、致命的だった。
 予定地点まではまだ、もうすこし距離が残っている。間にあってくれ。必死に願う。
 でも相手は待たない。
 ホオジロがもういちど手をあげ、すでにオボロの頭部は爪の間合いの内にあり、ウマのうえにいるせいでオボロは身体の自由も利かず、もし一撃をかわすためにウマを乗り捨てれば、その一撃だけはかわせるかもしれないけれど、それでさいご、地面に落ちたところを狙われて、生でつるっとおいしく食べられるのがオチだ、カンベンしてくれ、もうすこし、お願いだ、ユズハ、たす――

 凍った空間を裂いて殺到するふたつの風切り音。

 ――けてと思ったと同時に、とつぜんウマと熊の距離がひらいた。
 ホオジロは大きくのけぞって、両手をふりまわしながら後ろへ倒れた。重い身体が落ちこむ衝撃で、地面が大きく揺れる。それはウマの疲労した脚には強すぎた。大きく態勢をくずし、反射的にオボロは鞍を捨てて跳びあがった。頭上に張り出していた大ぶりの枝にしがみつく。ウマはそのまま転倒した。
 静寂が訪れた。
 おそろしいほど静かだ。それまでの騒動がウソのようだ。森に満ちているさまざまな動物だけでなく、鬱蒼と茂って森を暗くする植物たちさえ、息を潜めて騒動者を見つめた。植物の影で精霊たちがひそひそ囁いた。幸か不幸か、オボロは精霊の声を聴くことができなかったけど。
 大きく息をついて、枝にしがみついたままオボロは下の地面を確認した。後方で熊が大の字にねそべっていた。動かない。死んだ。良く見ると、熊の頭には二本の矢がつきたっている。矢は左右の耳穴から頭部を正確に、互いちがいに貫いて、直接に脳を破壊していた。
 貫通した矢に矧がれた矢羽は、一本は赤く、もう一本は青かった。
 予定通りのこととはいえ、あまりの正確さに、驚く以上に呆れてしまう。
 オボロはこのためのオトリだった。狩猟者が真に危険に身をさらし、熊を引きずりまわすことで相手の冷静な判断力を失わせ、そこに臥せっていた弓手が矢を射こむ。バカみたいに単純な、しかしギリギリの賭けに、オボロはどうにか勝ったようだった。情けない姿をさらしても。
 ぎし。オボロのしがみついている枝が揺れた。見上げると、目の前に二本の手が現れていた。ふたりの少年が太い枝に足をかけて、微笑みながら助けの手をさしのべてくれている。オボロはすこし迷ったあと、懸垂の要領で自分の身体を自分でもちあげた。
 独力で枝のうえに立って、それまでの逃避行と、それにともなう卑屈な心情などなかったかのように、キリリと締まりあがった笑顔で、ふたりに礼をいう。
「助かった。ありがとう、ドリィ、グラァ」
 手を拒まれたことは気に入らなかったけど、率直にお礼を言ってくれたのは、それ以上に嬉しい。ささいな恨み言などあっさり忘れて、ドリィとグラァは屈託なくオボロに尊敬のまなざしを送った。



 ドリィとグラァは、狭い意味で、オボロの家族ではない。血はつながっているが、けっして近くない。にもかかわらず彼がふたりを養育しているのは、第一には彼らには両親がなく、自立するにも早い年齢であるからだ。しかしもっとも重要な理由として、ふたりが彼の軍事力として欠かせない地位を占めているからである。
 このふたりは、どこに出しても恥ずかしくない弓の名手だった。
 まだドリィとグラァが幼かったころの話だ。
 オボロの集落に、頻繁に出入りする薬師がいる。トゥスクルだ。オボロは彼女の送迎を欠かしたことがない。この老婆は彼の集落にとっても、彼個人にとっても、欠かせない医師であり、丁重に歓待されるのが常だった。
 当時のオボロは弓と短剣で武装していた。森は危険だが、道をはずれなければそれほど不安はない。動物や、動物以外のモノたちも、人間の通る道はよく知っていた。節度ある生活をしていれば、彼らと人間のあいだでの棲みわけは容易だった。
 ある日オボロは、トゥスクルの出迎えに、ドリィとグラァをともなった。ふたりとも成熟にはまだ遠い年齢だったが、そろそろ子供の仕事だけでなく、男としての仕事を知る必要があった。なによりその素直で元気な気性のせいで、ふたりは老婆のお気に入りでもあった。
 トゥスクルを案内する道中、果たして森は驚くほど平穏だった。オボロはこれを、まだ幼いふたりが武器に親しむ好機であると思った。武器を手にするには、技術以前に経験がものをいう。しかしさいしょの経験は、ほんとうの修羅場であってはならない。安全な場所であればこそ、潜在的に殺人を推奨する兵器を素人に手渡すことができるのだ。
 彼らはまだ、せいぜい、武器というより道具でしかない鉈くらいしか持ったことがない。
「ドリィ。グラァ」
「はい!」
 緊張感にあふれる、良い返事だった。微笑みがこぼれる。そこに自分たちへの愛がこめられているのに気づいて、ドリィとグラァは緊張を緩めた。しかし礼節は忘れず、直立して主人からの言葉を待った。
 そんなところがまた、オボロからの好感を高めずにはおかない。
「おまえたち、弓をもったことがあるか」
 そんなふうに、オボロは話をむけた。
「はい。戦争ごっこでは、ぼくたちはいつも弓手です」
「おもちゃじゃない。ほんものだ」
 彼らは赤面した。実践の戦士であるオボロのまえに、自分たちがまだ戦えない子供でしかないことを思い知らされた。法も警察もない自力救済の社会にとって、武装能力は成人の絶対条件である。
 そして、若者を大人へ導くことが年長者の役割だ。肩からすらりと弓をおろして、ふたりにさしだした。ふたりは一振りの弓を同時に受けとる。オボロの身長よりも長い弓は、ふたりでいっしょに手に載せていても、ありあまる長さだった。
「大きいだろう」
 ふたりは無言でうなずいた。命を奪うための道具だ。迫力がちがう。子供どうしのいくさごっこで使う弓とは質感がまったくちがっていた。はじめて手にする凶器への、わくわくする気もちより、具現化した危険への慎重さと警戒のほうがずっと強く彼らを捉えた。
「はやく大人になれ。さきに一人前になったほうに、その弓をくれてやる」
 オボロはさわやかに笑った。ちいさい者たちに兄貴風を吹かせることは、彼の自尊心をおおいに満足させた。
 調子のでてきたオボロは、まず、グラァに矢を一本渡した。
「撃ってみるか」
 そう水をむけ、手ぢかにある大木を指してみせる。この距離なら外すことはない。それ以上に重要だったのは、これならじゅうぶんに弓をひく膂力がなくてさえ、矢を幹に刺すくらいのことはできるはずだった。
 大人の弓を子供がひけるわけないことくらい、わかっている。
「よろしいのですか」
「いいさ」
 遠慮がちに尋ねるグラァに、オボロは鷹揚にうなずいた。ドリィが嫉妬と羨望をこめたまなざしで、グラァを見つめる。グラァは手のなかの弓矢に興奮して、そんなことにも気づかなかった。
 グラァは胸いっぱいに弓をひいた。
 弓はするりと引かれた。まるで抵抗がなかった。弓はありえない弧を描いてひん曲がり、横にひしゃげた楕円のように広がった。
 それをオボロはふしぎな目で見た。
 トゥスクルが、言った。
「オボロ。あんたの弓は弱すぎるね」
(「えー」)
 こんな子供が自分の弓をひきぬくことなど、あるはずがない。しかし実際、グラァはやってのけた。オボロにとっての、あってはならない矛盾。その難題を彼は、グラァから目をそらすことで解決した。
 見なかったことにしたのだ。
 知らん顔して、ひとりで歩き出す。その背中で、
「こんどはぼくだ」
 と言ってドリィが弓をグラァから奪った。彼もまた弓の強さを感じさせないくらいのびのびと弓を引き絞った。オボロは見ていなかったけど。
 そのとき、オボロの背後で、なにか木材のへし折れる音がした。
「――なんの音だ」
 絶望的な思いで口にしてしまう。確認したかったが、自分の目で見る勇気はなかった。
 トゥスクルが、言った。
「オボロ。あんたの権威が崩れた音じゃよ」
(「えー!」)
 トゥスクルは、とびきり可愛い孫を見る目で、ドリィの手のなかの、まっぷたつに折られた弓を見つめた。
 弓をひくのに力は必要ない。力ずくは下の下だ。弓と弦の個性を見ぬけば、おのずと射手の胸はきれいに開かれるものだ。ドリィとグラァは天性の射手であることを、こうして証明した。
 村につくとすぐ、オボロはドリィとグラァにそれぞれ最上の剛弓を与えた。それはふたりをおおいに喜ばせた。しかしそれ以上に喜んだのはトゥスクルだった。部下に嫉妬せず(すくなくともそれを表に出すことなく)、気前よくふるまえることは指導者として得がたい才能だ。それは戦士の才能などよりずっと稀有で、社会にとって有用なことを、彼女は熟知していた。
 以来、オボロはふたりをつねに自分のまわりに侍らせるようになった。弓の強さと巧さにかけて、ふたりに優る者はなかった。それからオボロがみずから弓をもつことはなくなり、その代わり、ふたつの手にふたつの刀を握った。
 オボロはオボロで、努力によって、二刀流という、ほかの誰にも達せない兵法の境地にたどりついた。



 オボロが熊を倒したことは、皆から大いに歓迎された。
 一党の長は、その重きをつねに周囲に知らしめねばならない。彼の行為は無意識的であれ、名望を高めるための打算からなる。悪は打算でなく無能だった。それに打算はお互いさまだ。もし集落を守るだけの能力がないとなれば、彼らはいつでもオボロを捨てるだろう。
 しかしオボロが熊を倒したこと、それ以前に怪我もなく無事に帰ってきたことを、無償の愛で喜んでくれる人がいる。
「おかえりなさい、お兄さま」
 ユズハは病床でにっこり笑った。上半身を起こして挨拶しようとするのを、オボロが慌ててひきとめる。
「寝ていろ」
「でも」
「兄を困らせるな」
 ユズハはもういちどにっこり笑って、すなおに忠告を受け入れた。
 オボロはユズハを溺愛した。その甘やかしに拍車をかけたのは、彼女が病弱だという事実である。ユズハは幼いころから、その将来よりは死期を話題にされてきた。いつ死んでも、それがあたりまえだった。針の先のように細い道をたどってきた人生は、いっさいの余計なものをまとうことができないほど弱く、病床以外のどんな環境も知らなかった。
 しかしユズハのほんとうの不幸は、その病身にあるのではない。
 ユズハのよく知る人間は、オボロのほかには、身の回りの世話をするふたりの奴婢(ニナィとホコロ)と薬師のトゥスクルだけであり、ドリィとグラァでさえ迂闊にユズハに近づくことはできなかった。他には誰も、なにも知らなかった。知識と知己の乏しさは、そのまま彼女の人生の貧しさだった。
 オボロによって強いられた貧しさだった。
『オボロ。ユズハをもっと自由にしてやりな』
 トゥスクルはしばしばそう忠告した。彼女の言うことにはたいてい服従するオボロも、この件だけは、けっして肯んじようとしなかった。
『どの命も終わるんだと、お前さんは知らなきゃいかんね。最期までユズハをあそこに寝かせておくつもりかえ』
 言われるまでもなく、それくらいオボロは知っている。いつかは誰だって、自分さえ、死ぬ。しかし彼の強い愛情は、その普遍的事実を、いたいけな妹にまで適用することを、頑なに拒んだ。結果、愛情は偏愛にならざるをえなかった。
 ユズハの体力に余裕があることを確認してから、オボロは熊殺しの武勇を語ってきかせた。むろん自分が格好よく思われるための脚色は忘れない。
 しかし、とどめを刺したのが彼自身ではなくて、ドリィとグラァだったことは隠さなかった。ユズハとは比べ物にならないにせよ、オボロはドリィとグラァにも深い愛情を注いだ。機会さえあれば、誰かにふたりのことを自慢したくてしかたないのだ。血がつながっていないだけで、ドリィとグラァも、オボロの欠かせない家族なのである。
 ユズハは柔らかいとも弱々しいとも判別しがたい微笑みで、話にじっと耳をかたむけた。もとよりそれ以外の表情を彼女が浮かべるのは決して多くない。彼女が切なげな顔をするのは、病床の外に広がる広大で豊かな世界を想像してみるときで、そんなときは決まってまわりに誰もいないときだった。
 ともあれ、いまこのときの、兄が嬉々として語ってくれる時間が、ユズハに楽しくないわけがない。彼女にとってもこれは貴重な時間であり、それゆえにオボロには、この時間は不可侵だった。
 だから、話の途中で婢女のひとりが部屋に入ってきたとき、オボロの不機嫌は言いようもないほど強かった。
「なんの用だ」
 言葉で刺す。
 それで奴婢は怯えた。罰されると思った。じっさい、つまらぬ用事であったなら、オボロは容赦をするつもりなどなかった。奴隷は奴隷でしかない。家族でない。
 部屋に緊張が張りつめる。
 それがふいに緩んだ。ユズハがオボロの腕に触れたのだ。目が見えなくとも、あるいはそのゆえにかえって、彼女は雰囲気を敏感に感じとる。ユズハはその純粋な精神でもって、弱い者に害意が向けられることがあってはならないと信じていた。ユズハ自身、オボロの庇護がなかったら、最底辺の弱者にすぎない。
 オボロは頭をふる。それで頭を冷やした。謝罪はしなかったが、そのかわり、さっきよりはずっと優しく言いなおした。
「なにかあったのか」
「あ、あの」震える口で、それでもなんとか報告する。「オグマさまが、酔って、暴れだして、その」
 怯えたせいで最後まで口がまわらなかったが、十分に事態は理解できた。眉をしかめる。その感情は、ユズハとの時間を邪魔されたときとおなじく、やはり不快感という言葉で表現できるものであったが、その性質はまったく異なっていた。
「オグマか」
 吐きすてる言葉の裏には、たしかな恐怖が潜在していた。



 腕っぷしでオボロに敵う者はまずいない。ドリィとグラァが弓の名手であったとしても、兵法者としての器と経験は、まだオボロの足元に及ばない。オボロの強さのために、ひとびとは彼を尊敬し、また彼の権威を認めた。
 しかし集落で唯一、戦士としてオボロに勝る者がある。
 それがオグマだった。
 熊の大きさで、虎の筋肉をもつ。武器らしい武器を使わず、素手か、まきざっぽうで戦った。獣性を擬人化したような男だった。人間が文化の生き物であるとして、彼はまだ片方の足を自然につっこんでいた。
 オグマこそ彼らのなかで最強だと、だれもが認めていた。しかし、オボロには認める権威を、オグマには誰も認めようとしなかった。その第一の理由は、彼の性格が粗暴すぎたからである。戦闘面での獣性は日常生活でも発揮された。他人の言うことを聞かず、短絡的で、勤労も大嫌い。およそ集団生活に適していなかった。
 第二に、彼は異常に不潔だった。湯浴み沐浴にはいっさい縁がなく、蓬髪に櫛を通すこともなかった。彼の髪は虱の巣窟だった。遠くからでも体臭を感じることができ、近くに寄れば鼻が曲がる。風邪で鼻の効かぬ者でさえ、喉の奥に広がるすっぱい味覚でそれと気づけるほどだった。
 そして最大の欠点は、他人の意見に一切耳を貸さないことだった。これはもちろん、乱暴者としての彼の性格に対応している。それに加えて、彼は耳が遠かった。その不潔さのせいで、生まれてこのかた一度も耳掃除をしたことがないからだと噂された。しかし実際に明かりをかざして彼の耳の穴を確認した者はいない。噂だ。
 そんな乱暴者がどうにかオボロのもとで生活できたのは、伝統的な権威、家長とか族長とか、「長」と名のつく者の威光に、オグマは徹底的に服従したからだ。社会的上位者には犬のように従順だった。そしてオグマが自分の上位と認めるのは、唯一オボロのみだった。
 オボロはあまりオグマが好きでない。というより苦手だ。粗暴で不潔というのはもちろんあるが、自分より強い者への畏怖を抑えることはできなかった。
 しかしオグマは、オボロの命令には服従したし、さらに重要なことに、実力行使が必要な局面にあって、オグマの実力は欠かせなかった。危うい均衡のうえに、オグマは自分の立場を社会内に確保していた。
 オグマの存在をもっとも強く批判するのは、オボロの仲間でなく、部外者のトゥスクルである。彼女はオボロを息子のように愛しているし、ひとびとを治めるということにかけて、オボロの生まれるはるか以前からの経験がある。オグマのような男が役に立つだけではなく、いつか荷厄介になる日がくることを、おそらく身をもって知っていた。
『オボロ。おまえは身内に甘すぎるね』
 しばしばそんな忠告をする。もちろんオグマのことだけではなく、ユズハへの溺愛なども含めての意見である。オボロは敵には容赦しなかったが、ひとたび受け容れてしまえば、情け深く面倒をみた。しかし大事にするあまり、頑固すぎたり、あるいは逆に、煮え切らないような態度をとることも少なくなかった。
 オグマのこともそうだ。彼がどんな乱暴をしても、自分の仲間として立場を与えている以上、オボロは強くオグマを処断することがなかった。
 トゥスクルの言葉に正当に反論するだけの根拠を見つけることができず、けっきょくオボロは拗ねて、開き直るしかない。
『身内に甘くてなにが悪い』
『身内を治めていくのに都合が悪いさ。立ちゆかなくなるときが、きっとくるよ』
 そんな会話を続けてきた。
 だから、オグマが暴れだしたとき、オボロは声を荒げて、ことさらに権高い態度をとる。自分の立場を、オグマよりも周囲にみせつけるのだ。
「やめろ!」
 でもオグマはやめない。というより聞いてない。耳が遠く、そのうえ酩酊したオグマは奇声をあげながら、自分のではない家屋を、実にのびのびと、かつぞんざいに、解体工事していた。
 その横で、家の持ち主は途方に暮れていた。もともと貧乏な集落の、粗末な家屋だ。壊そうと思えば時間はかからない。
「聞け!」
 聞かない。なにが楽しいのか、あるいは不満なのか。酩酊と言うより、半ば没我状態で暴れていた。なぜこんなことをするのか。特別な理由など、まず、ない。
 暴れたいだけなのだ。
「いいかげんにしないか!」
 オボロの絶叫はオグマの狂躁に劣らなかった。その場に居あわせた者がみなおどろき、自分が怒鳴られたように身をちぢめる。
 皆を萎縮させたひとことは、オグマすら正気づけた。豪腕が止まり、首をねじまげて発言者を確認する。邪魔をするのがつまらない奴だったら、ひねってやるつもりだった。が、
「――オボロさま」
 彼にだけは逆らえなかった。オボロは社会不適応者である彼の唯一の保護者であった。オボロの権威すら無視するようなら、だれもオグマの社会的地位を認めないだろう。
 ふわふわした浮遊感がとつぜん消えて、地に足がつく。怒鳴られたくらいで酒精は去らないが、オグマは自分が不始末をやらかしたことくらいは理解することができた。
 それからのオグマは、いつものとおりに、平謝りに謝った。暴れていたときの迫力はなく、巨躯を兎のようにちぢめ、額づいて赦しを請うた。
「すんません、すんません、すんません」
 こんなときのオグマは、すっかり凶暴性が消え去り、ふだんとの落差のせいでかえって愛敬のある存在になる。そんな憎めなさも、彼が追放されてしまわない理由だった。
 それに、強いオグマがこんなに平身低頭するものだから、オボロも気分が悪いはずがない。強いことが指導者の肉体的適性であるとするなら、気前がよくて鷹揚なことが精神的適性である。オボロは、オグマの今回のあやまちも、寛大な気分で赦してやった。この暴れ者を御することのできるオボロは、結果的に名を高める。このふたりは、皮肉な意味で共犯関係にあった。
 しかしオボロには、つねに恐れが存在する。いまはおとなしく言うことを聞いてくれるからいい。しかし、いつまでオグマは大人しく言うことを聞いてくれるだろうか。その不安がつねにつきまとう。オグマの気質の安定(ないし馴致)は、彼のひそかな課題であった。
 騒ぎのあった翌日、オボロはあることを決意して、オグマを呼びつけた。
 やってくるなり、オグマは平伏した。昨夜の件で罰せられるものと思っているらしい。ひたすら恐縮して、顔もあげない。
 そんなオグマに、オボロはやさしく話しかけた。
「まことにすまんこってす」
「顔をあげろ」
「このたび、まことに申し訳ない……」
「顔をあげろ!」
 怒鳴って、やっとオグマは顔をあげた。耳が遠いせいで、意思の疎通が容易には成立しない。
 醜い髭づらが、母親にこっぴどく叱られた子供のように消沈していた。こんな表情を、彼はオボロにだけはみせた。
 だから、憎めない。
「ゆうべのことは、もういい」
 オボロの意図は別のところにあった。いつもの騒ぎを、いまさら責めたてるつもりはない。むしろ、将来にわたって、オグマが落ち着きを見せ、皆とうまくやっていくことのできる環境を整えてやることが重要だと考えた。
 オボロの解決案は単純で素朴だった。
「なあ、オグマ」諭すように。「おまえ、嫁をとれ」
「コメ? いや、俺は野良しごとは……」
「ヨ、メ!」
 大声で言って、やっと通じた。しかし単語をうまく聞き取ることができてさえ、オグマはぽかんとした頭の悪い表情をくずさなかった。
 オボロは、じつに堅実な思考でもって、暴れん坊が落ち着くには身を固めるのが最善だと考えた。じっさい彼の乱暴は、もちろん生まれつきの性格でもあるが、いっぽうで天涯孤独の身の上のせいでもあった。さみしさを紛らわすために騒動をひきおこしているようなところがあった。誰かにかまってほしいのだ。だからこそ騒ぎのたびにかけつけてくるオボロを彼も、彼らしいやり方で、好いていた。
 結婚し、家をもち、子を作り、育て、家を守るために耕す。オグマに必要なのは懲罰ではなくて、人並みの生活の保証だった。肉体だけの一人前を、社会でも一人前にしてやることだ。
「好きな女がいるか。いるなら言え。なあ、おまえもいい年だ。いつまでも酒に酔って暴れているわけにもいかんだろう」
 という内容を伝えるために、何度も言い直しと大声を必要とした。
 内容が伝わるとオグマは、顔を真っ赤にしてヘドモドしだした。ひどく恥ずかしがっている。はにかみすぎて気味が悪い。しかしオボロは、そんな感想はおくびにもださない。オグマがなにか言い出すのを、じっと待った。
「それでは、その。そのう」
 オグマにこんな純朴な側面があるとは、オボロは思っていなかった。が、その歯切れの悪さは、世なれぬ相手をかわいいと感じさせるものではない。聞いていてだんだんイライラしてくる性質のものだった。
「嫁が欲しいのなら、俺が保証してやる。二言はない」
 つい断言した。
 それでやっと、オグマはためらいを捨てて、意中の人を言う気になった。
「それでは、その。そのう――」黄色い歯の奥から流れ出す空気が、ひとつの意味ある単語を形成する。「――ユズハさまを」
 オボロはなにも言わなかった。頭のなかが真っ白になって、考えることができない。オグマは返事を待った。オボロはいい、とも、だめ、とも言わない。
 ついに、オボロの沈黙を、了解の合図だと自分勝手に解釈した。
「よろしくお願い申し上げる、兄者」
 オボロはいちおう即答を避けた。かわりに拒否もしなかった。
 証人や立会人もいない。書類などなしに婚約や結婚の正当性を証明するためには、それらの人々が不可欠である。ウヤムヤにしようと思えば、できなくはない。
 いっぽうでオグマは、すっかりその気になってしまった。
 真剣に困った。長であるためには、嘘吐きであってはならない。オボロは迂闊にも、相手がだれであっても仲をとりもつと保証した。契約書のない社会で、口約束は神聖不可侵である。ひとたび口にされたことを誠実に実行する規範がなければ、だれも他人を信じないだろう。
 では、ユズハをオグマに嫁がせるか? 理屈など要らない。直感でわかる。断じて否。もっともオボロにとって、ユズハにふさわしい男など、この世にひとりもいない。その意味で彼は、とくべつオグマを差別しているわけではなかった。
 その後、
「兄者、ユズハに会わせてもらえんかのう」
 しばしばオグマはそう要求してきた。面とむかってきちんと求婚することに彼は異常にこだわった。なにか彼なりのこだわりであるらしいのだが、知りたくもないので知らない。健康状態を理由に、オボロはそれを断りつづけた。
「だいたい、おまえはユズハと顔をあわせたこともないだろう」
「だが、兄者がいつも自慢していた。ユズハより美しい女はない、と」
 たしかに、しょっちゅうそう自慢していた。そんなことはよく聞きとれるようだった。
「だから、ひそかに想いつづけていたのだ」
 夢見るような表情をするオグマにそれ以上のことは言えなかった。彼にできるのは、結論を先延ばしすることだけだった。



 事態は悪くなるばかりだった。
 オグマのユズハへの想いはますます募っていくようだった。しかしそれ以上に悪かったのは、彼の態度が以前よりずっと横柄になったことである。ただの乱暴者が、力をたのんで騒ぎを起こすのではなく、偉そうに威張りちらすようになった。
 具体的に言えば、かつての
「俺はオグマだ。とても強いんだぞ」
 が、
「俺さまはオグマさまだ。とても尊いんだぞ」
 になった。いったいどこが尊いかと人に問われて、屈託なく、
「俺さまはユズハと結婚するのだからな。ということは、俺さまはオボロの弟だということだ」
 すっかり姻族きどりで吹聴してまわった。しかもオボロを呼びすてにした。
 オグマの話を聞いた者たちは、結婚のことは与太話として信じていない。妹のことにかけて異常な態度をみせる「あの」オボロが、「あの」オグマにユズハを娶らせることなど、ありえないことだった。
 それをいいことに、オボロは火が鎮まるのを静観することにした。ただ、この話が隔離されたユズハには伝わらないよう、細心の注意を払った。
「もし教えたら殺す」
 ユズハの世話をする奴隷にそう言ったのは本気だった。彼女は忠実に言いつけを守った。
 ところが、オグマは憎めない無邪気な威張りんぼだけではいられなかった。
「俺さまはオボロの義弟になるのだから、おまえら、オボロの権威に服するように、俺さまの権威にも服するのだ」
 と言うようになり、
「オボロの身になにかあれば、その立場を継ぐのは俺さまだ」
 と主張するようになった。これはある程度まで正しい。親族原理による地位の継承はどんな社会にあっても珍しいことではない。いっぽうで、適性者原理を無視することはけっしてできない。身体だけでなく心も優秀であることが要求される。後者の観点から、オグマはだれからも期待されていなかった。
 とまれ、ここまで言われては、オボロも黙ってはいられない。オグマを呼びつけて、言った。
「言いたい放題だそうだな」
「そうでもないと思う」
「おまえが、俺のあとのことを考える必要などない」
「しかし、考えておかねば。俺は弟になるのだし、兄者に不安もある」
「どういうことだ」
「兄者が弱虫だからだ」
「弱虫? 俺がか!」
 瞬間、脇の刀に手が伸びる。オグマはそれを平然と見つめた。いくらでも平然としていられる。
 真正面からやりあえば、逆立ちしたってオボロはオグマに敵わない。
 だからオボロも、武器に手をかけただけで、抜かなかった。
 抜けなかった。
「兄者はホオジロを殺すのに、罠を使ったと聞いた」
「そうだ」
「倒したのは子供の弓だったとか」
「――そうだ」
 ドリィとグラァを自慢に感じるのは、ユズハにたいしてのみではない。そのほかの者たちにたいしても、あまさず彼らの能力を自慢してまわっていた。オボロはそれを彼らの名誉だとは考えても、オボロ自身の恥であるとは考えていなかった。しかしオグマにとって、それはオボロの惰弱の証明だった。
 罠を張る。子供の手助けを必要とする。
 ――要するに、男らしくない。
「俺ならひとりで倒した。素手でも、倒した」
 世界が崩壊するほど強烈な衝撃がオボロを揺さぶり、奈落の底へ突き落とそうとした。踏みとどまるので精一杯だった。
 事実、オグマならできるだろう。ほかの誰にできなくとも、彼ならできる。
 戦闘での強さをひきあいにだされては、オボロはオグマに一言も反論できない。もしやりあえば、やられる。その事実のまえに、オボロは沈黙するしかなかった。
 このやりとりのあと、オグマはますます増長した。オボロはオグマにたいして、なす術がなかったのだから。積極的にオボロの権威を傷つけるようになった。最初はオグマの戯言と信じていた者たちも、オボロが何も言わないものだから、動揺しはじめた。
 族長への不信感が、小さな集落を浸していく。



 ドリィとグラァは毎日の弓の練習を欠かさない。オボロに認められることは彼らの義務であり、それ以上に誇りと感じていた。
 そんな日課の稽古のさいちゅうに、オグマがふらりとやってきた。彼は、ふたりの稽古をしばらく黙って見ていたが、やがて大声で笑った。それが嘲笑であることは明らかだった。
「弓など、だめだ」あたまからそう決めつけた。「人間が弱くなる。男なら前に出ろ」
 そう言って、ふたりから弓をとりあげた。ふだんならオグマに黙って物を奪われるほどノロマではないふたりだが、このときだけは抵抗しがたいものを感じていた。
 オグマが恐ろしいだけではない。いまやユズハとオグマの結婚話は誰もが知っていた。それを否定できる唯一の人物は、沈黙を守っていた。オグマだけでなく、オボロにたいしても、どのように接すればいいのか、誰にもわからなかった。
 ふたりがとまどっていると、とつぜんオグマはドリィの胸元をつかんだ。熊のような身体つきのくせに、その動きは若鹿のように敏捷だった。そのまま腕一本でドリィの身体をひっこぬき、投げてしまった。不意をつかれたドリィは、器用に受身をとったが、高い打点から投げっぱなされてはどれほどの効果もない。背中をひどく打ちつけ、あっさり動けなくなった。
「こいつ!」
 グラァは腰の鉈に手をかけた。撲殺するつもりだった。ふりかぶって、ふりおろす。
 その過程を、オグマはだまって見ていた。
 いままさに自分の胸に刃物がおちかからんとするとき、オグマは無造作に手をかかげた。衝突の瞬間、息をつめて全身を硬直させる。鉈は腕にあたった。しかし鉄は肌を噛まなかった。筋肉の鎧にはじかれて、グラァの手から鉈をはじいた。
 つぎの瞬間、空いた手でオグマはグラァの頬を平手打ちした。ドリィの横にふきとんで、口と鼻から血が流れた。オグマを見上げる憎々しげな目から光は失われなかったが、意思と反対に身体はいうことをきかなかった。
「オボロは弱い。あんな男の言うことを聞いているから、おまえたち、いつまでたっても強くなれないのだ」
 傲然たるその態度。オグマはいまや、男らしさというもっとも単純な原理でもって、最高の地位に立とうとしていた。それが支持される性質のものかどうかは、まったくの別問題である。
「あいつは弱虫だ。戦士でない。けだものを罠に追いこむのがせいぜいだ」
 笑って、その場を去った。
 この直後、事件を聞きつけたオボロは、すぐさま現場へかけつけた。もうオグマの姿は周囲になく、怪我をしたドリィとグラァが互いにいたわりあっているだけだった。
「大丈夫か」
「はい」
 ふたりはそう答えただけで、オボロとは目をあわせようともしなかった。彼にたいする尊敬が消えたわけではない。ただ、なんであんな男をほしいままにさせておくのか、そのことだけが納得いかなかった。
 もしオグマと戦えば、命があるとは思っていない。にもかかわらず、オボロが一声かければ、ドリィとグラァは喜んで死ぬつもりだった。なのにオボロは、いつまでも動かない。
 歯がゆくてしかたない。
 もちろんオボロも、ふたりの気持ちには気づいている。しかし、この期におよんでなお、オボロは動こうとしなかった。誰もの面目がたち、丸く収まる方法を、むなしく考えつづけた。
 仲間ではないか。家族のようなものではないか。なぜ身内どうしで争わねばならないのか。
 もっとうまいやりかたを探している。



 そんなものはないのだが。
 破滅には配慮などない。都合も聞かずにやってくる。少なくともその意味で、オグマと破滅は同義だった。
 オボロの監視の目をくぐり抜けて、オグマがユズハの寝室に侵入した。
 オボロは可能なかぎりユズハの身辺にいた。離れねばならぬときでも、ドリィとグラァが守るのがふつうだった。ところがオグマに打ちのめされてから、と言うより、それにオボロがなにもしなかったときから、ふたりは以前ほど任務に熱心でなくなった。ことさら手を抜いたというわけではないけれど、意欲の減退はどうしようもなかった。
 ふと目を離す、空白の時間ができてしまった。
 オグマはもちろん、その時期を見計らうほど器用ではない。ただ、たまたまとおりかかったとき、監視の目がなかっただけだ。それはオボロには不運だったが、オグマにとっては既成事実を作る好機だった。彼は、その権利が自分にあると信じていた。
 ユズハの寝室は殺風景だった。しかしオグマが驚いたことに、花が飾られているわけでもなく、また香が焚かれているわけでもないのに、病人に特有の饐えた体臭にまじって、かすかな薫香がオグマの鼻を楽しませたことだった。
 それは花の匂いだった。
 ――いい女は花の匂いがするのだ。
 花の匂いなどしみじみと嗅いだことがあるわけがない。にもかかわらず、それが直感的に花であると感じることができるのは、詩的な思惟の賜物ではなく、むしろ嗜虐的な本能のゆえだった。
 花は手折りたくなるものだ。
 ユズハは眠っている。仰向けに横たわった身体の、頭だけをほっこりと露にしてあとは布できれいに覆われたその胸。本来のなだらかな起伏だけでなく、すうすうとした寝息のたびに上下する姿。禁忌的な可憐さ。オグマのなかで、赤熱した感情の奔流が暴威となって駆り立てる。
「ううう」
 知らず、うめき声が漏れた。
 その気配に、眠る者も覚ました。世間を知らず、したがって危険らしい危険を知らないユズハに、歪んだ性の理解できるはずもない。しかし白い花にはどんなかすかな黒い染みも姿を隠せない。自分にむけられる強烈な害意に、彼女は敏感だった。
 ユズハの不幸は、その害意の正体がどのようなものであるか、同年代の少女なら理解できるていどのものを、彼女にはまったく具体的に理解できないことだった。
「どなたですか」
 知っている者なら、ユズハは気配で誰だかわかる。これまで知らなかった新しい気配は、なにも知らないユズハでさえ恐ろしい気もちにさせた。声が震えていた。得体の知れない圧迫感がユズハを襲う。
「おまえの夫だ」
 それだけの紹介で十分だと、オグマは信じた。あとは、交歓の事実さえあればよい。
 ユズハはちがった。相手を男と認識せず、異性を異性と認識できず、したがって自分が女であることすら理解していなかった。男女のなんたるかを知らない彼女には、オグマは得体の知れない征服者でしかない。病気と盲目のために自由がきかずとも、周囲のひとびとの善意によって安らかに生きることが許されてきた。その、兄を中心とした安楽な世界観が犯されようとしている。
 それが破滅でなくてなんだろう。
 とつぜんユズハが吐血した。
 それはほんとうに血だったろうか。反吐だったかもしれない。魂そのものであったとしてもおかしくなかった。生物にとって大事ななにかをきらきら口吻から撒きちらしつつ、ユズハは寝台のうえで悶え、それだけではおさまらずにころげ落ちた。
 むせびながらのたうちまわる姿は、人間の理性を超えた、むきだしの命の塊にすぎなかった。いまのユズハは、死に向かって死に踊らされる、虚しいできそこないにすぎない。
 その醜悪さは、オグマにとって未知の衝撃だった。どんな生物も彼の一撃で簡単に死んだ。それゆえに、死ぬという瞬間はよく見知っていても、死につつあるという状況を彼は知らなかった。知っていたとしてもそれはオグマと同じように屈強の戦士であって、彼らは自らの武運の拙さにも従容としていた。彼らには覚悟があった。いかにも儚い命があられもなく悶え苦しむ姿は恐怖にさえ感ぜられた。
 ユズハのようなきれいな器が、病人特有の死に汚さでもって生命に執着する姿は正視に耐えなかった。
 オグマはのたうつユズハを置き去りにして闇へ逃走した。



 オボロが留守だったのは、やってくるトゥスクルを迎えに行っていたからだった。ドリィとグラァが持ち場を離れたのも、ふたりがやってきたと見張りに教えられ、ちょっとそこまでという軽い気持ちで迎えに出ていたからだ。空白は十分ほどで、致命的とはならなかった。
 トゥスクルはすぐさまユズハに正しい処置をほどこした。さいわい、手遅れではなかった。しばらく目は覚まさないだろうが、手間と暇をかければ、回復する。
 いや、ユズハにかぎって、必ずはない。楽観と日和見は容易に彼女の命を奪う。トゥスクルは技術と理性のかぎりを尽くした。
 容態の急変した原因はすぐに明らかとなった。空白の時間帯にオグマがユズハの部屋に入り、そしてまろびでるところを何人もが見ていた。
 見ていて、なにもしなかった。
 腹立ちのすべてを、オボロは絶叫に紛らわせた。
「オグマがなにかしたのか!」
「しとらんよ。とつぜんの見知らぬ客に、ユズハが興奮しただけじゃ。ユズハのなかの神様が暴れだしたのさ。それを見てオグマは逃げ出したんじゃろ」
 長らく籠の鳥だったユズハに、人見知りの性癖が生まれないわけもない。いっぽうで未知の者への好奇心もまた、抑えられるものではない。その撞着は、オボロやトゥスクルのような、誠実な仲介者さえあれば、容易に克服できるものだったろう。
 しかしユズハは、たったひとりで、いきなり他人からの害意に直面した。
 耐えられるわけがなかった。
 このときトゥスクルは、いつかユズハに友人らしい友人を作ってやることを決意した。これまでもそう思わなかったわけではない。オボロの強い反対に、これまでは従ってきた。じっさいユズハの体力に不安もあった。しかし見知らぬ他人に発作を起こすようでは、わがままの癲癇をおこす幼児となんの変わりもない。
 ユズハを、ひとりの人格を、いつまでも幼児に貶めていてはならない。
「それより、オボロ。誰もオグマに声をかけようとしなかったことの意味を、あんたは考えてみるべきだと思うがね」
 トゥスクルの言葉はオボロの憑かれたような熱狂も鎮めた。彼にとっては熱狂のほうが幸せだった。狂っていれば問題の所在に気づかずにすんだのだから。
 そ問題に気づかずに素通りしたり、わけのわからぬまま通過してしまうようなやりかたを、トゥスクルは許さなかった。それは誰のためにもならない。オボロのためにも、ユズハのためにも。そしてきっと、オグマのためにも。
「オグマをどうするかえ」
 その問いに、オボロは答えなかった。ここまで来れば、選択肢など驚くほど少ない。しかしその回答を、トゥスクルのまえで口にすることはできなかった。
 トゥスクルは無言で、懐から何かとりだした。
 鉄扇だった。
 すらりと扇を開くと、仕込まれた刃が鈍く光った。毒と血に黒く曇った、トゥスクルの牙だ。彼女はいまや、それがどんな理由であっても、殺生を許そうとしない。それは自身が、実力行使を積み重ねてきただけに、その禁忌をよく理解できるからだ。命を潰したことがない者に、ほんとうに命の重さを理解することはできない。
「オグマを殺すかえ」
「俺には、オグマは殺せません」
「――そうかえ」
 トゥスクルは鉄扇をじっと見つめていた。その目には彼女に特有の、年齢に無関係な活力が消え、ただ年相応の老婆の疲労だけが埋み火のようにくすぶっていた。
「トゥスクル様。俺は……」
 言えたのはそこまでだった。それ以上は言えなかった。なにを言おうとしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、背中のちいさな老婆に、何か声をかけずにはいられなかった。
 オグマを殺す? オボロは自問自答する。なるほどそれは、もっとも合理的な解決だ。ユズハとオグマを結婚させるなど問題外だ。いっぽうでいまや、オグマはオボロの言うことなど聞きはしない。結婚をさせない限り、彼は満足しないだろう。殺害はもっとも手っ取り早く、安易な解決だった。それで、さんざ傷つけられた族長としての面目も、どうにか保つことができるだろう。
 オグマが敵なら、それもいい。
 オグマは敵ではなかった。正確に言えば、この期に及んでなお、オボロはオグマを敵とみなすことができなかった。オグマは自分より強くて、煙たい存在だ。それは確かだ。だからといって、これまで同じ場所に住み、苦楽を共にしてきた事実をなかったことにはできない。この辺境の荒蕪地で、細々と狩猟で糊口をしのぎ、それで足らぬときには、強盗・略奪のたぐいも辞さなかった。そのためにオグマが、どれだけ貢献したことだろう。
 どんな欠点があったとしても、オグマは欠かせない仲間だったのだ。
「俺は……」
 いったい、どうすればいいだろう。
 オボロは、その答えを、間違いなく知っていた。



 虫の鳴かない夜。月に照らされた淡い闇。肌をなでる冷たい空気。
 オボロはひとり、木立に囲まれたちいさな空き地に立っていた。目をつむって、腕を固く組んでいる。腰には双剣。迷いを断つために、なにも考えないよう多大な努力を払いながら、じっと待った。
 草と枯れ枝を踏みしだく音がして、木立の闇から開けた月明かりのなかに、のっそり姿を現す者があった。
 オグマだ。
 彼は丸腰だった。が、ふたりの実力の差は明白である。いざというとき、素手でも互角以上に戦えるとオグマが確信していたとして、驚くべきことはなにもない。
 ――そうか。来たか。
 オボロはからっぽの微笑でオグマを迎えた。
「なんの用だ」
 オグマはぼそぼそした声で尋ねた。もちろん用事に心あたりがないではない。だからこそかえって、オグマの言葉は倣岸になった。
 オボロは冷静を装って、言った。
「村を去れ。そうすればぜんぶ赦そう」
 そして、地面に重量感のある袋を投げ出した。
 袋のなかには、なにをするにも困らないだけのじゅうぶんな量で、金・銀・宝石などの持ち運びしやすい動産がつまっていた。それは村の共有財産から供出されたのではない。すべてオボロの私物だった。
 いわばそれは、手切れ金だった。
 オグマはそれになんの反応も示さなかった。その態度はオボロから赦されるべきことなど何もないと言わんばかりの尊大ぶりにも見えた。しかしそれ以前に、聞こえていなかっただけかもしれない。その耳はやはり、噂どおりに耳垢でみっしりつまっているのだろうか。オボロはそんなことを考えていた。
 しかしオグマは目をしっかりと開いており、夜空の月は相手の表情が見える程度には光を放っていた。表情さえ見えるなら、オボロが何を言わんとするのか、理解できないほど愚かではないはずだ。眉をよせて難しい表情をうかべたのは、その証左であるにちがいない。
「去れ。頼む」
 ゆっくりはっきり、オグマにも確実に聞き取れるよう気を使いながら、もういちど言った。それは冷徹な宣告などではなく、むしろ哀願だった。オボロはいまだ、彼を仲間のひとりとしか見ることができなかった。どんな欠点や悪意がオグマにあるとしても、これまでともにしてきた苦楽を思えば、都合が悪いからといって便利に切り捨てることなど、彼にはできないことだった。
「俺を追放するのか」
 長い沈黙のあと、それだけを言った。弁明しようとする殊勝さなど微塵もなく、むしろ自分が見放されようとしていることについての非難がオグマの声ににじんでいた。
「俺のよく知る村がある。そこでおまえを受け入れてくれるよう頼んでみよう」
 もともとオグマは権力に弱い。新天地で新しい権力に触れれば、ふたたび以前の従順さを取り戻すかもしれない。従順でありさえすれば、オグマの怪力は生活のさまざまな局面で実に有用である。受け入れられる可能性はなくはなかった。
 その希望的観測に、オボロとしてはすがるしかない。
 しかし、
「おまえの約束など信用できるか」
 そう吐き捨てられ、オボロはそれ以上、説得の言葉をもたなかった。
 そのとおりだ。嫁を保証するという最初の約束を反故にしたのは、オボロのほうなのだから。その不信がオグマをあれほどの粗暴な行動に駆りたてたのだと思えば、強いことが言えるはずもない。
「たのむ」
 懇願だけが手段であるかのように頭をさげた。オボロは誠実だった。もし提案が受け入れられれば、彼はどんな苦労をはらってもオグマの新しい安住の地を探すだろう。
 オグマにも葛藤はあった。ともすればはぐれ者になってしまいかねない自分を、仲間たちに取り持ってくれたのは、ほかならぬオボロなのだ。族長の尊厳を抜きにして、感謝をささげても足りることがない、大恩ある人物である。それくらいの自覚はあった。
 しかしだからこそ、嘘は赦せなかった。
 信頼を裏切られたと思っている。百の信頼を崩壊させるには一の虚偽で十分だった。彼が期待していたことのなかには、もちろん、ユズハのことや、オボロの義弟として専横的な地位につくこともあった。しかしそれ以上に彼にとって重要で、すばらしく思われたことは、まっとうな家庭をもって、真に一人前として社会に迎え入れられることのほうだった。自分には無縁と信じてきたことが実現する可能性は、しかし裏切られた。恨みの残らぬ道理はない。
 オグマのなかに、くろぐろした怒りが急速に満ちる。満ちた瞬間、彼は腕をおおきくふるって、オボロを殺すために殴りつけた。
「オグマ!」
 不意を打たれながらも、間一髪でかわす。身のこなしの速さではオボロのほうが上だが、撲殺の経験ではオグマのほうがずっと上だ。きわめて効率的なそのやりかたは、オボロの石火の動きをもっても回避するのがやっとだった。
「話をきけ!」
「――聞こえん!」
 拒絶的な絶叫とともに、二度三度と殴りかかる。法も契約書もない社会において、いちど口にした約束が守られないことの深刻さははかり知れない。確実性をもって他人を信頼できないことは社会の危機に等しい。その意味でオグマには、少なからぬ正当性がある。
 だからこそかえって、オグマも譲ることができなかった。
「聞け!」
「聞こえんな!」
 避けそこねた拳がオボロの肩を打った。強烈な衝撃に肩がはずれなかったのは、彼の柔軟さの賜物である。痛みが脳を揺さぶり、瞬間、冷静な判断を失った。
「――――」
 叫ぼうとして、声を抑える。決断をしそこねた。なおも希望にすがる。
「聞いてくれ……」
「聞かぬ!」
『決断しなきゃいけないよ』
 ふいに脳裏にトゥスクルがあらわれてそう告げた。その目はひどく悲しそうで、しかしながら固く結ばれた口元には、これまで幾多のつらく不条理な選択をしてきた者の強い意志が浮かんでいた。「聞こえぬ」ではない。「聞かぬ」とオグマは言った。聞こえていて、それでいて聞く耳をもたぬことの、それは宣言だとしてよい。
 そしてオボロは決断した。
 彼は降参するように両手をあげた。その動作は緩慢で、わざとオグマに見せつけるためのものだった。
「話を聞け」
 その言葉は、もはやためらいの表現ではない。最期通牒をつきつける、厳しい決断の精華だった。
 オグマは聞かなかった。水をたっぷりふくんだ瓜が固い床にでも叩きつけられたときのように、捕らえられれば破壊でなく破裂をまぬがれないほどの、強烈な暴力の体現である太い腕が、高くねじりあげられ、オボロとオグマの身長差からすればほとんど垂直と言っていい角度で、風圧を置き去りにしそうなほどの速さで打ち下ろされ、寸分たがわず頭部の急所へと落下する、もはや問答無用に聞く耳もたぬその拳――

 凍った空間を裂いて殺到するふたつの風切り音。

 ――その拳が止まった。じぶんの鼻先で停止したそれを、オボロはまばたきもせずに見ていた。拳が揺れた。そのように見えたのは、オボロの視界のほとんどが拳にふさがれていたからの錯覚で、じっさいに揺れたのはオグマの身体そのものだった。揺れて、揺れて、左右にぐらんぐらんと動いたあと、しまいには後方に倒れこんだ。その衝撃が足をとおってオボロの脳へ直接に伝わってくる。
 それっきり、オグマは動かなくなった。
 死者の耳からは、左右の耳をとおって、二本の矢が互い違いに頭部を貫通していた。矧がれた矢羽の一本は赤く、もう一本は青かった。
 オボロを囲む暗い木立の両側に、いつのまにかドリィとグラァがひっそり立っていた。
 ふたりの左手にはいまだ弓が構えられ、右手の指は隙なく新しい矢をつがえている。彼らの主人が首を左右にふったので、ようやく彼らは構えを解いた。
 勝った。
 あるいは勝ちなどない。端からの負け戦か。
 オボロには判別がつかなかった。はっきり言えることは、なにかの結果を出すために彼は、勇気でなく、企みをもってしたことである。村を離れてくれるよう説得をする。しかしもし、もっともありそうな仮定として、オグマが受け入れず、しかも無抵抗の姿勢を見せる相手に攻撃を加えるようなことがあれば。そのときは。
 それがオボロの決断だった。
 やるとしても、まともに対面すればオグマには敵わない。そしてこんな陰謀は、やるからにはけっして失敗を許されない。罠を用意するにしても、囮と、なにより有能な狙撃手が必要だった。
 その任に耐えるのは、ドリィとグラァをおいてほかになかった。
 ふたりの返答は、オボロが驚くほど明快だった。
「ぼくたちの弓は若様のものです!」
 その弓を与えてくれたのが誰であったか、彼らは忘れたことがない。オグマの暴虐を始末するのがオボロの責任であるように、オボロの決意と行動にどこまでも忠実についていくことが自分たちの責任であることを、ドリィもグラァも知っていた。
 オボロが自分の責任から逃げないのであれば、彼らもまた、自分の責任から逃避するつもりなどなかった。
 オボロは立ったままオグマを見おろして、動こうとしない。やがてドリィとグラァは主人に一礼して、ふたたび木立のなかへと消えていった。ひとり残されて、オボロは動かず、魂をぬかれたように犠牲者を見ていた。
 そのまなざしには、加害者が自分であるにもかかわらず、あるいはだからこそ、死者への無償の優しさが含まれていた。それを偽善と呼ぶにはあたらない。オグマの負債は、その死をもって完済されたのだ。あとには仲間への慈愛だけが残されるのが道理だった。後腐れのない返済を完了して、オグマはふたたび迎え入れられたのである。
 そのときあることに気がついて、あんまり悲しかったので笑った。オグマの頭部の、左右の耳から交叉して突きでた二本の矢に、血で赤く塗られた大量の耳垢が、鏃のうえにべっとりと黄色い姿を付着させていたのだった。
 ――ああ。これでこいつも、あの世で人の言うことを聞くようになれるかな。
 何かがあふれてきた。揺れるまなざしを、オボロはもう抑えられなかった。
「お別れだ、オグマ。お前の言うとおり、俺は弱虫だった!」
 ふいに風が駆け抜けて、告別の言葉をさらっていった。そのまま風はどこかへと吹いてゆき、果たして他界のオグマのもとまで運んでくれるものかどうか、神ならぬオボロには見当もつかなかった。
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