虹




 昨日から続く薄暗い空模様は、まだ回復する気配すら見せず。
 ひとり立ち尽くす私は、傘の下でただ黙って雨の音を聞いていた。
 辺りには誰も見当たらず、何の変化もない。
 いつも通りの日常、感情の抑揚など起こるはずもないその中で、
 目の前の道端に転がっている、細くて白いビニールの傘。
 誰かに捨てられて、置いていかれたのだろう。ところどころ折れ曲がって、使い物にならないほど壊れている。そんな寂しげな傘がどうしてか、私の目に止まった。

 止まない雨、ひとり、傘を持たない人、好きだった人。

 なぜだか私は急に悲しくなる。
 どうしてかなんて、理解は出来ないけれど。
 いまだにこの場所でこうしていることの意味さえも、上手くは説明することが出来ないけれど。 
 それでも私は、辛くてもここにいたい。
 そんな理不尽な感傷と矛盾を噛み締めながら、私はいつまでも雨に打たれ続ける。

 壊れて捨てられた傘も、よく見れば似ているかもしれない。
 ふと、そう思うと、遠い日の思い出が急に蘇ってくる。
 何も出来ずにただ黙って雨に濡れて、弱々しい姿はまるで、いつかの誰かみたい。
 私は傘に隠れて、そっと俯いた。
 少しでも強い風が吹けば、壊れた傘は今にも飛んでいってしまいそうだ。
 そうまさに、あの日の彼と、今の私の心のよう。
 

 


「起立、礼」

 あれから、世界は憎らしいほど変わらず。

「それでは、今日は43ページから」
 
 彼だけを除いた全ては、いつもどおり時間を刻んでいる。

「あっ、教科書忘れちゃった。見せてくれない?」

 だけど、そんなありふれた平凡な日々こそが、私の求めたものだったのに。

「どっ、どうぞ……えーと、君は?」

 今の私の目には、褪せた現実しか見えない。

「……詩子」

 変わらない現実、というのも、ある意味すごいものだ。
 本当に彼以外の物事が、そのままここにある。

「やっほ、茜」

 少し離れた席で、友人が手を振る姿が目に映った。
 屈託なく笑う少女。
 色褪せた風景に、ちょっとだけ色彩が戻ったような気がした。





「ねー茜、帰ろうよ」

 二つ傘が並んで、いつもとは少し違う感覚。

「風邪、引いちゃうよ。こんなところにずっといると」

 不満げに訴える詩子。
 さっきからずっと、彼女はこんな調子だ。

「ほんっと、茜って、意地っ張りだよね」

 そして、沈黙が続く。
 私から言わせると、詩子も相当変わっていると思う。こんな私に、理由もなく付きまとっているのだから。
 いや、違う。彼女は彼女なりに、私のことを想っていてくれている、ということだけは痛いほど理解できる。
 そしてそれだけに辛い。
 彼女には、何一つ事情を説明できないのだから。

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

 私は彼女を見ずに、傘越しに話しかける。
 それは何年も沈黙を貫いてきた私の、ほんのささやかな気まぐれだった。

「なになに? 何でも聞いて」
 
 弾んだ声が返ってきたかと思うと、詩子は回りこんで私の顔を覗き込んだ。

「例えば、詩子にすごく好きな人がいて」
 
 意を決して話し始めると、

「うわあ、何それ! なに、茜って、恋の病?」

 私は嬉しそうにはしゃぎ出した彼女を、じっと見つめた。

「……ごめん。続けて」

「例えば、その好きな人が、その……急にいなくなって、会えなくなるとします」

 質問を続けながら、鼓動が激しくなるのを感じた。

「うーん。いなくなるって、行方不明、って感じ?」

 彼女の問いには答えず、質問を続ける。

「もう会えない可能性のほうがずっと高いとしたら、あなたなら、どうしますか?」

 どうしますか。
 それは、誰に問いかけているのか。

 しばらく詩子は黙って考え込んでいたが、

「そうだね、私だったら一生懸命探して、それでも駄目だったら、あきらめるかな」

 やがてあっさりと、彼女らしい答えが返ってきた。
 それは、ある程度予想できる範疇のものだった。

「だって、いなくなる人にも理由はあるんだろうし。私よりも大切なものがあるんだったら、しょうがないじゃない」

 聞いてもいないのに、彼女はそう続ける。
 もっともな理由を、何の迷いもなく。
 私は自然と、彼女の声を遮断するように傘で顔を隠した。

「そう、ですか」

 私は吐き出すように、ただ呟いた。

 もう彼は帰っては来ないかもしれない。あいつみたいに。
 しょうがない、とあきらめれば、きっと、すぐに楽になれるのだろう。
 
「茜?」

 私の微妙な変化を感じ取ったのだろうか、詩子は私に声をかける。

「私は……」

 私は、それでも……
 少し勢いを増した雨のせいで、右側の肩は少し濡れ始めていた。

 降り出した雨は、きっといつか止むだろう。
 そんなふうに、まだ私の中に希望のようなものが残っているからこそ、私はまだこうして、この場所で彼を待っている。
 全ての空しさや、寂しさと共に。
 ただ彼が帰ってきてくれる、それだけを信じて。

 この想いが途切れる前に、願いよ叶いますように。と。
 
 私は傘の中で、誰にも見えないようにそっと、祈った。
 いつか見た、雨上がりの綺麗な空を想い描きながら。
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