[ The First Day ]

 オレの手の中には生暖かい異臭を放つ、昔ティッシュと呼ばれていた物体がある。いくら自分の体内で生成したモノとはいえ、お世辞にも気持ちのいいものとは思えなかった。オレはベッドに背中から倒れこむようにしてスラダンの三井よろしくフェイダウェイ、シュート。よどんだ部屋の空気の中を美しい弧を描いて飛行したソレは、ポスンと小気味良い音を立ててゴミ箱に収まった。見飽きた天井を前に、オレは力なくガッツポーズを取った。
 ぶっちゃけ、何やってるんだろうね、オレは。
 世に言う自家発電行為をした後には、決まってこんなテンションになってしまう。それが男として当たり前のことなのだと知ったのはつい最近のことだ。知識として知っている分、しょうがないことなんだと自分に言い訳ぐらいは出来なくもない。しかし、さっきまでオレの脳内で繰り広げられていためくるめく魅惑の性の饗宴のメインヒロインを張っていた少女の顔を思い出すと、身体が勝手に土下座を始めてしまうのだ。
「うがああ」
 悶えながらごろんごろん転がるオレ。もうかなり年代モノのベッドが軋んでギシギシ音を立てる。その音は妙にいやらしく、オレの大して自慢にもならない息子はむくむくとその威容を取り戻した。なんでやねん。
「ごめん、美坂」
 謝ってみても、オレの脳内美坂は優しく妖艶に微笑むだけだ。
 とりあえずオレの右手は部屋の隅に転がっているティッシュ箱に伸びた後、本日二回目の自家発電行為に及んだのだった。





今日死ぬはずだった一億の生命よ





[ The Second Day ]

 何がいけないのかと問いかけても、オレの脳みそは「体操服姿で走る水瀬の揺れるおっぱいは反則なのですよ」という答えしか弾き出さない。
 耳に挿し込んだウォークマンのイヤホンが少しズレてきた。イヤホンがズレた隙間から、いつもと変わりない教室の喧騒が漏れ出してくる。心地よくもなく、不快でもない音の奔流。むしろイヤホンから流れるちゃらいJポップスの方がうっとうしくなってきて、オレは乱暴に耳からそれをひっこぬいた。耳の穴に流れる空気を感じる。男のアレを抜いた後の女のアソコと似ているといえば似ていなくもないのかもしれない。
「淫猥だ……」
「お前がな」
 机に突っ伏したオレの上から降ってきた声の主は、あろうことかオレの脳天にチョップをかましながら失礼極まりないことをぬかしやがった。オレにこんなことを言う野郎は、この教室には二人しかいない。
「その様子を見る限り、相変わらずお前は充実したオナニーライフを送っているようだな、北川」
「相沢には負けるがな」
「馬鹿言うな。俺は既にオナニーなどという児戯からはとっくに卒業したさ。今は殊更に充実したセッk」
 相沢がその言葉を最後まで言うことが出来なかったのは、何者かが投擲した鉛筆削りが奴の頭にクリーンヒットしたためだ。相沢は周りの机を巻き込んで豪快に昏倒するが、皆そんな光景には飽き飽きしているので、教室にはすぐにさっきまでの喧騒が戻ってくる。
 犯人は言うまでもない。そんな大惨事を巻き起こしたとは名探偵でも看破出来ないであろうナイス笑顔を浮かべている彼女だ。
「また腕を上げたな、水瀬」
「お褒めに預かり光栄だよ、北川君」
 すっごい良い笑顔のまんまで相沢をずるずる引きずって回収していく水瀬の姿は、かなりシュールだった。水瀬と入れ違うように教室に戻ってきた美坂は、「ああ、またか」というような顔をして、オレに話しかけてくる。
「相沢君、今日は何をやらかしたの」
 溜め息交じりの言葉の内に、言い表せない感情が渦巻いているような気がするのは、多分おそらくオレの考えすぎなんかではないのだろう。そんな些細なことでも分析してしまうオレ自身が、オレは嫌でしょうがなかった。
「いつものこった」
 オレの溜め息も、美坂の溜め息と混ぜ合わせて、この教室の喧騒に溶かしてしまえばいいのだろうと思う。無論、混じり合うような溜め息なんか、オレと美坂の間には存在しないのだが。

 その日の夜は自家発電こそしなかったものの、夢の中で水瀬と相沢の睦み合いに何故か美坂までが参加して、グッチャングッチャンのえらいことになってしまった。
 無論、翌朝オレのトランクスの中もえらいことになった。



[ The Third Day ]

 今日はなぜかいつもの四人にプラスして、女の先輩二人を合わせた六人という大所帯で昼飯を食う事になった。追加メンバーのほとんどと会話したことないオレだったが、美人達に囲まれて食事をすることには何の異論もない。
「だからって、なんでここで?」
「そういうものなんだ」
 当然過ぎるオレの疑問を軽やかにスルーする相沢。不審に思って周りの面々を見回してみても、この昼飯ロケーションに疑問を持っている人間は、どうやらオレだけのようだった。屋上へ向かう階段の踊り場に水色のシートを敷いて仲良く六人並んで昼飯って、案外普通のことなのだろうか。
「沢山ありますから、遠慮しないで食べてくださいねーっ」
 必要以上にテンション高い倉田先輩の声に促されるまでもなく、でかい弁当箱に群がるオレと相沢。旨い。
 倉田先輩の弁当の他にも女性陣はみんな何かしら作ってきているみたいで、シートの上はあたかもパーティーの様相を呈している。なぜか人数分の取り皿まで用意されていた。
 しかし、先輩たちはこの時期にこうしてのほほんと弁当箱を広げているが、大丈夫なのだろうか。受験とか卒業とか。オレの記憶が確かなら、多分数週間もすれば卒業式だったはず。授業もほとんど終わっているはずで、事実三年生の大半はもう自由登校になっているはずだ。それでもこうして弁当を作ってきて、一学年下のオレ達とランチパーティーをするって、よほど暇なのだろうか。
「んしょ、と」
 オレから一番遠い弁当箱にある鶏の唐揚げに箸を伸ばした瞬間、その弁当箱の向こう側に座っている川澄先輩の足が目に入った。足が、というよりは、太ももが。
 ウチの高校の女生徒は大抵スカートの丈を短くしていて、それは川澄先輩も例外ではないようで、こうして地べたに座ってしまうと少しの風でめくれたら、それはもう、男子禁制の不思議空間というわけでして、その、唐揚げに箸を伸ばしかけたボクという男子は、その奇跡の瞬間を逃すまいと目を血走らせてシャッターチャンスを狙うエロカメラマンのようになるしかないわけでして――
「ちょっと、邪魔」
「あいたっ」
 後ろ頭を叩かれて振り返ると、眉間に皺を寄せた美坂がいた。
「私も唐揚げ欲しいんだけど」
「あ、わるい」
 身体を引いた。川澄先輩の太ももが遠ざかっていく。ああ、グッバイマイスイートレッグ――
「お弁当箱の上で、一体何やってんのよ」
「いやぁ」
 笑って誤魔化すと、美坂の眉はさらに吊り上がっていく。思わず引いた視線。美坂の全体像が網膜に映る。
 うん、こうしてみると、美坂の太ももだってけして川澄先輩に負けてない。
「ニヤニヤしないっ」
「あいたっ」
 また叩かれた。
 オレの今夜のおかずが決定した瞬間だった。



[ The Forth Day ]

 美坂にメールで告白した奴がいるらしい。
 もちろん、オレはそれを美坂本人から直接聞いたわけではない。授業の合間の短い休憩中に机に突っ伏して仮眠を取っていたら、偶然水瀬と美坂の会話が耳に入ってきてしまったというだけの話だ。
「で、どうするの? 断るの?」
「なんで断るって決め付けるのよ」
「だってー……」
「わかんないわよ? あの名雪が裏切って先に彼氏作っちゃったんだもの。私だって人間なんだから、寂しくなって彼氏の一人や二人――ってなっても不思議じゃないと思わない?」
「うーん、まぁ、それは、そうかも……って原因は私なのっ!?」
「あはははははっ! まぁね」
 眠ったふりを続けるのは結構辛かった。
 かといって今さら目を覚ましたふりも出来ない。起き上がり、のびをして、あーよく寝たぜーとトイレに向かう――無理だ。出来っこない。
 結局オレは彼女達の雑談が終わるまで寝たふりを続けなくてはならなかった。

 授業が終わるとすぐに相沢が話しかけてきた。
「おい、聞いたか? 香里がまた告られたらしいぜ」
「聞いてないけど聞いた」
「どっちだよ」
「まぁ、対外的には聞いてないってことにしといてくれ。ところで、なんで相沢はそんなこと知ってんだよ……って聞くまでもないか」
 こいつの美坂に対する情報のソースなど、水瀬以外にはありえない。
「まぁ、そういうこと。で、お前どうするんだよ」
「どうするって……別にどうもしないが」
「なんで? お前香里のこと好きなんだろ」
「なぜそんなことを決めつける」
 言いながら周りを伺う。幸い水瀬も美坂も教室にはいなかった。
「なんか今回香里もまんざらではなさそうって言ってたからさ。香里スキーな北川君としては、ここらで何らかのアクションを起こすべきではないかと思ってね」
 芝居がかった調子で相沢が言う。少し、カチンときた。
「だから、誰も美坂のこと好きだなんて言ってないっての」
「でも、気にしてはいるんだろ?」
「ま、まぁ」
「じゃあ他に好きな子でもいるのかよ」
「いや、別にいないけど」
「認めろって。お前は香里のことが好きなんだよ」
 段々相沢の口調に熱が入ってきた。
 実際の所、オレは美坂が好きなのか、自分でもよくわからなかった。確かに、美坂は他の女子よりも数段可愛いし、スタイルもいい。性格はキツそうに見えるが意外に優しい所だってある。頭もいいし、運動も出来る。はっきり言って、まるきり目立った特徴のないオレなんかじゃ到底手にすることが出来ない高嶺の花と言ってもいい。だから、美坂のことを夜のおかずにすることはあっても、恋愛の対象として見たことはなかった。美坂がオレと仲良く手を繋いでデートするなんて、どう考えても想像さえ出来なかったからだ。
 そんな意味のことを相沢に伝えると、奴はこう言った。
「じゃあ、香里が他の奴に取られてもいいってのか」
 オレは、答えられなかった。
 机に倒れこんだ。横を見ると、すぐ傍をクラスメートの女の子が通り過ぎるところで、揺れてひらひら舞い上がるスカートの裾からわずかに純白の何かがちらりちらりと見え隠れしていた。その光景は十分過ぎるほど夜のネタになってくれたのだが、上半身がどうしても片方の眉を吊り上げた美坂の姿になってしまい、目的を達成するにはいつもよりも長い時間が必要になった。



[ The Fifth Day ]

 放課後、ぶらぶらと商店街を歩いていると、ゲームセンターの入り口に置いてあるUFOキャッチャーに夢中になっている女の子の二人組みがいた。確か、二人とも水瀬の家に居候していたはず。名前は確か……なんだっけ?
「あーっ! 北川さんだーっ!」
 二人のうち、ダッフルコートに羽のついたリュックサックを背負っている方の子がオレに気付いた。周りの目も気にせずにぶんぶんと手を振っている。
 気付かれてしまったのに無視して通り過ぎるわけにもいかず、やむなくオレは二人の方へ歩み寄る。
 むぅ、ダッフルにカチューシャの方の子も、ツインテールの子も、全く名前がわからん。どうしよう。
「あぅー。ねぇ、あゆ、こいつ誰だっけ」
「祐一君のお友達の北川君だよ、真琴ちゃん」
「あーっ! 思い出したーっ! 祐一の手下の北川ねっ!」
「手下じゃねえ!」
「じゃあ、下僕!」
「どんなイメージなんだオレはっ!?」
 泣きたくなった。
 明らかに年下の女の子に、自分と同い年の奴の下僕だか手下だかと思われているとは。
 だが、ただでは転ばないのがオレのポリシー。
 今の会話でとりあえずカチューシャの子の名前はあゆで、ツインテールの子はまことだということはわかった。
「きたぐぁ……なんだっけ? まぁいいわ。そもそも、こいつが暗い顔してのそのそ往来を歩いてるのがいけないのよ」
「ちょ、まぁ確かに北川君、疲れた顔してるよね? どうしたの? 何かあったの? よかったらボクに話してみてよ。何か力になれるかもしれないしさ」
 中学生のような、下手をすれば小学生のような少女二人組にこんなことを言われなければならないほど、今日のオレは酷い顔をしているのか。余計へこんだ。
 だけど、次の瞬間洗いざらい話しているオレがいた。なぜ。
「うーん、ボクにはよくわかんないよー」
「ばっかねーあゆは。こんなのごちゃごちゃ考える前に告ってくればいいのよ」
「そうなの?」
「そうよ。こんなの迷ってるうちに他の奴に取られちゃってから好きだって気付いて、夜に枕ぬらす羽目になるんだから」
「相沢も似たようなこと言ってたな」
「あぅ、祐一と意見が合うなんて不本意だけど、絶対そうよ。女の子は告白されるのに弱いんだから、意外なところでころっていっちゃうかもしれないわよ」
 すぐさま、女同士であーだこーだと言い合いが始まった。女の子は本当にこういう話題が好きだよな。
「でも、そうかもしれないよね。好きだって言われると別になんとも思ってなかった人でも、なんとなくボクもってなっちゃうかも」
「でしょー? で、何も出来なかった哀れな下僕は、帰り道とかでカップルになった二人に偶然出くわして思わず隠れちゃったりするのよ。二人がとっても楽しそうに話してるから、ただのクラスメートでしかない北川は何も言えなくなっちゃうの。二人の姿を見送った後、帰り道を一人で歩きながら、あーこれからあいつらどこ行くんだろうなーとか、あいつらもうキスとかしたんかなーとかぐるぐる考えるの」
「うわぁ、ありそう。北川君ってそこまでいかないとオレが先に告白していればーとか思わなそうだよね」
 好き勝手言われても、オレはこいつらに何一つ言い返す言葉がない。だってそれらは全て紛れもなく数週間、もしくは数日後のオレの姿だろうから。
「どうしたの北川君、あれ、泣いてるの?」
「ばっ、ばか、泣いてなんか、いねーよ」
「今泣くのはいいけど、どうしようもなくなってから泣くのは本当に辛いわよ。その辺――」


 わかってんの?


 胸の鳴る音で目が覚めた。やけに後味の悪い夢だった。すぐに頬を擦ってみたが、涙のあとはどこにもないみたいだ。
 むくっと起き上がり、頭をぼりぼりかいて、そういえば昨日はオナニーしてないな、と思った。



[ The Sixth Day ]

「お姉ちゃんですか? 昨日来てくれた時、なんかお姉ちゃんいつになく上機嫌でしたよ」
 日曜日に相沢に連れられて来たのはとある市民病院の病室で、そこには初対面の美坂の妹がいた。栞ちゃんというらしい。色白で肩くらいまで伸ばした髪が綺麗な可愛い子だ。相沢と既に知り合いというところが、どうも釈然としないのだが。
「栞、そのことなんだけどさ。何か香里から聞いてないか?」
「何かって、何をですか?」
「ほら、例えばだ。彼氏が出来たー、とか、今日告白されちゃったーとか」
「お姉ちゃんは基本的にそういう話を他人にしませんから。それは妹である私でも例外ではありません」
「うーん、栞ならもしかしてと思ったんだけどなぁ」
「お役に立てず申し訳ないです……」
 栞ちゃんがぺこんと小さく相沢に頭を下げる。なんか、オレのことであるはずなのにオレが一番蚊帳の外に居る感じだ。
「でも、なんですね。そのラブレターの人といい、北川さんといい、やっぱりお姉ちゃんはもてるんですねー。なんか、羨ましいなぁ」
「栞なら普通に学校通ってたら香里くらいもてるだろ、常識的に考えて。なぁ北川」
「あ、ああ」
 急に話を振られて少し驚いた。
 確かに、栞ちゃんは美人だ。美坂とは少しタイプが違う感じだが、顔立ちもスタイルも凄く整っていて、それはどこか美坂を思わせた。
 ふと栞ちゃんがこちらを見て、またすぐ目を逸らした。少しじろじろ見すぎたか。
「あ、ごめんね」
「いえ、いいんです」
 相沢が「あんまりじろじろ見るんじゃねーぞー」と茶化してくる。うるさいうるさい。
「お姉ちゃんはですね、多分ですけど、やっぱり白馬の王子様みたいなのが好きなんだと思います」
「は、白馬?」
「そうです。白馬の王子様」
「今時?」
 相沢と顔を見合わせる。ぷっとどちらからともなく吹き出す。
 白馬の王子様。
「ちょっとー、笑ってますけどー、女の子は多かれ少なかれそういうものなんですっ!」
「はは、わりいわりい。栞がそういうの好きなのはなんとなくわかるけどさ、香里は違うんじゃないか、ちょっと……くくくっ」
「ちっちっち、甘いですよ祐一さん。お姉ちゃんだって結局はこの私のお姉ちゃんなんですよ? 私とお姉ちゃんには同じ遺伝子が流れてるんです。だから、お姉ちゃんがそういうの好きなんだっていうことは、私にはわかるんです」
「なんかそう言われると説得力あるな……」
「そうでしょ? 絶対そうなんですって」
 急に力の入った口調の栞ちゃんに少し圧倒される。なんだ、この熱は。
「ねえ栞ちゃん、ちょっといい?」
「はい、なんでしょう」
「そのさ、白馬の王子様って、具体的にどんなのを言うの?」
「うーん、そうですねぇ」
 そう言って栞ちゃんはうーんと考え込んでしまった。栞ちゃんの頭の中では今まさに白馬の王子様がぱからぱからっと駆け回っているに違いない。
「別に白いお馬さんに乗って来いというわけではないんですが……うーん、要するにですね、すっごく優しい人のことを言うんだと思いますよ」
「優しい人?」
「ほら、御伽噺の中だと白馬の王子様は悪い魔法使いに捕らえられたお姫様を、命がけの冒険をして助けに来てくれるじゃないですか。それって、他のどんなものよりもお姫様が大切ってことですよね。全てを持ってる人が、お姫様だけのために全てを投げ出してくれるんです。そんな風に命がけで愛されてみたいっていう気持ち、男の人にはわかりませんか?」
 もちろんかっこいい人っていう条件がつくこともあるでしょうけど、と栞ちゃんは結んだ。
 それは優しさなのだろうか、とオレは思った。白馬の王子様は途方もなく優しいとして、それでもその行動のどこかに下心は混じっていないだろうか。それだけやってあげればお姫様を自分のものに出来るのだという確信が彼にそうさせたのではないのか。そもそも、優しさって一体なんだ。悪い魔法使いから姫を助け出すことが優しさなのか。
 仮に、仮にだ、オレが美坂のことを好きだとして、オレがそのラブレターの男から美坂を奪い取るため、あの手この手を使い、甚大な犠牲を払って、やっとのことで美坂を手に入れたとしよう。美坂は果たして幸せになれるだろうか。全てを使い果たしたオレは、お姫様を幸せにしてやれるだろうか――
 思考に沈んだオレの代わりに相沢は栞ちゃんと少し話をし、また来るからな、と一緒に病室を出た。
「北川、お前変なこと考えてただろ」
「ああ……まぁ、何を考えてたのかオレにもよくわからん」
「まぁ、色々あるけどさ、気楽に行けよ。気楽に」
 相沢の言葉はやけに耳に残った。少し前まで、こいつも色々あったみたいだ。そのほとんどについて、オレは何も知らないし、知る必要もないことだとオレは思う。相沢の苦労は相沢の苦労で、オレの苦労はオレの苦労でしかない。どんなに下らないことだろうと、そんなものだ。

 その夜、オレは久しぶりにエロ本で抜いた。何回か実坂の顔がちらついたが、気にしないふりをした。



[ The Seventh Day ]

 放課後に教室で寝ていたら、いつの間にか夕方になっていた。ぐるりと周りを見渡してみるが、誰も居ない。一人だけ取り残されたみたいだ。いや、みたい、じゃなくて実際そうなのだが。
「……誰か起こせよ」
「北川君がぐーすか寝てるからでしょ」
 棘のある言葉が背後から降ってきた。振り返ると、美坂が戸口から顔だけ出してこちらを見ていた。

「あんまりにも気持ちよさそうに寝てるから、もうみんなしてこのまま放っておこうってことになったの。で、私はこの時間まで生徒会のお手伝い」
「それはそれは、ご苦労様でした。肩でもおもみしましょうか」
「いえ結構」
 折角だから、帰り道がわかれるところまでは一緒に行こうということになった。
 美坂と一緒に帰ることになるのは初めてではなかったが、前まではいつも相沢と水瀬も一緒だった。今日はあの二人はいない。隣にいるのは美坂ただ一人。
「でもさ、こんな時間まで寝てるなんて、北川君はよっぽど暇なのね」
「何をぅ! ……ってまぁ、暇なんだけどさ」
「これから段々忙しくなるから、精々その自由な時間を楽しんでおくといいかもしれないわね。四月からは私達も受験生なわけだし」
「そうかもな」
 どうでもいい話をしながら、オレの全神経は美坂の方へ向けられている。少しウェーブのかかった髪の合間に見える白い首筋、胸元の膨らみ、少し潤んだ唇、少し長めの睫。
 どうしちまったんだろう、オレは。
 こういうのを流されているというのかもしれない。周りが躍起になって囃し立てるもんだから、うかつなオレはすっかりその気になってしまっているだけだ。少なくとも少し前までは美坂のことなんて何とも思っちゃいなかったんだ。それが、どうだ。相沢が転校してきて、水瀬と相沢つながりで美坂と少し親しくなって、あいつらがいなくても普通に喋るようになって、段々と距離が狭くなってきて、馬鹿なオレはそれを自分の都合のいいように解釈してしまっているだけなんだ。
 傷つくぞ、だから認めるな。
 これが恋だなんて、絶対に。
「北川君、どうしたの?」
「ん、何かあったか」
「今、すごく険しい顔してたわよ」
「そうか?」
「うん」
 こーんな顔、と美坂は眉間に踊る大捜査線の柳葉敏郎のような皺を作って見せた。いつもの美坂らしくないその仕草に、オレは思わず吹き出してしまう。
「なによ、そんなにおかしかった?」
「あ、ああ、まさか美坂がそんなことするなんて思わなかった」
「ふん、私だってたまにはお茶目にしたい時だって、あるのよ」
 そう言って美坂は笑った。
 確かに、栞ちゃんの言った通り、今の美坂は何か楽しそうだ。
「美坂、最近何かいいことでもあったのか?」
「ん? どうして?」
「やけに楽しそうだからさ」
「そうねー、特に何がって言われると難しいんだけど」
 えいっと、美坂は道路に転がっていた小石を蹴飛ばした。小石はてんてんてんと転がって、道路脇につまれた雪の残りに突っ込んで止まった。
「実はね、この間告白されちゃって」
「ふぅん、それで」

「――付き合うことにしたの」

 その言葉がオレに与えた影響は計り知れない。
 くらっと、目の前が真っ暗になったように感じた。足が震えた。でも、ふらつくわけにはいかない。最低限の格好だけは、つけないと。踏ん張れ、ここが男の見せ所だ、踏ん張れ、負けるな、負けるな。
「へえ、良かったじゃん。どんな奴なの?」
「別に、普通の人よ。一つ上の先輩。北川君は、多分知らないかな」
 委員会で一緒に仕事してたとか、その人が地元の大学受かって卒業する前にと告白してきたんだとか、美坂の言葉はどれもオレの耳を右から左へ通り過ぎていった。言葉は意味のない音の羅列に過ぎなかった。わかってんの、といつかの夢の中で聞いた少女の声がよみがえる。わかってんの、わかってんの、わかってんの――
「じゃあ、またね、北川君。また明日学校で」
 手を振って美坂は遠ざかっていく。美坂に似合わないくらいの笑顔。ただ呆然とそれを見送った。

 終わってから、気付く。
 後悔は、いつだって終わってからやってくる。

 その夜、AVを見ながらひたすら頑張ったが、一時間頑張っても無理だったので、諦めて寝ることにした。もしオレが今日オナニーしていたとしたら、約一億個の生命の種が無残にティッシュの中で殺されていたのだと思うと、こんな日もあっていいのかもしれないと思えた。無論、それも強がりだった。
 真夜中に携帯がぶるりと震えたが、手を伸ばす気力も湧かなかった。



[ The Eighth Day ]



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