うずしお



「美汐、あなた何してるの?」
 冬の日の昼下がり。炬燵へすっぽり埋まり、湯飲み片手に本を読んでいる姿を見て母親があきれる。年頃の子を持つ親として、おとなしく手がかからないのは楽だが、このまま色恋事もなく辛気くさい大人になってしまったらどうしよう。そんなことを考えると、育て方を間違えたとも思う。
「電話よ」
「どこから?」
 美汐が気怠そうに顔を上げた。外では礼儀正しい美汐も、自分の家では少々だらしがなくなる事がある。世間一般では花も恥じらう女子高生なのに、茶請けが金鍔なのはどうかと思うが、それも性格だから仕方ない。炬燵の反対側から飛び出してる足のせいで、なんとなく”ぶんぶく茶釜”のようにも見える。
「相沢さんって男の子からよ」
「……居ないと言ってください」
「いるじゃない」
「今ちょっと忙しいんです」
「本当に出不精ね、あなたは」
「ほっといてください」
「せっかくお友達が電話してくれたんだから、早く出なさいよ。だからあなたは……」
「なんですか?」
 本へ視線を落としたまま”ずずーっ”と渋茶を啜る美汐に、母親が怒気を含んだ声で言った。
「朝からゴロゴロして、根が生えちゃうわよ」
「だって寒い」
「ほらほら、さっさと炬燵から出なさい!」
 ずるずると引きずり出された美汐は、仕方なく1階の居間まで降りて電話へ出た。
「もしもし?」
『天野、俺だ、相沢だ。うわっ、何するんだ!』
「…………」
『助けてくれ! 肉まんを、肉まんを10コ買ってきてくれないと大変なことになるっ! 天野っ、一刻も早く来てくれーっ!』
 ”――プチっ”
 大きな溜息をつきながら、美汐は受話器を置いた。



 部屋へ戻り、不機嫌な顔を一層しかめてメリヤスの座布団へ座る。いつもながら、なんて失礼な人なのだろうと思う。プライベートの予定は2カ月前から全て完璧に決められていた。今日は読書・金鍔、明日は読書・蕎麦饅頭、明後日は読書・甘納豆……。最後に残った金鍔の一片を食べるか否か悩みながら、美汐は両手で信楽の湯飲みをまわしていく。あんな人へ真琴を預けていて大丈夫だろうか、変な影響を受けないかと、とても心配になってくる。自分が気にしても仕方のないことだから、仕方のないことだからこそ、余計にもどかしい。
 思考を遮るように立ち上がり、机の引き出しからシャトルシェフを取り出す。そして内鍋を引き出して、ほかほかのサツマイモを一本抜き出した。「きっと、私をわかってくれるのは、この芋だけなんです……」。そんな風に自分を慰めながら、薄い皮を上品かつ丁寧に剥いていく。
 淡い期待を胸に頬張ると、生煮えだった。芯がガリっと歯に食い込む。食感も嫌だったが、生煮えの青臭さが、青臭い少女時代を思い起こさせる。願えば叶う、どんな願いでも。そんな青臭いことを信じていた頃のことを。

 MOTTAINAIので口の中の芋を無理に飲み込み、さて、残りのこの芋をどうしてくれようかと考える。気分はライブドアショックの株価よりも悪化している。悪いのは、裏切り者のこの芋だ。破廉恥、厚顔、甲斐性なし。
 「狼藉者、出合え、出合え!」。つけっぱなしのケーブルテレビが叫ぶ。特別あつらえの饅頭陰謀が露見して、若侍たちが慌てて飛び出していく。悪代官はカボチャみたいな顔だった。冬至にカボチャを煮るときには少し時間を長くしてみよう。お料理メモに”時間、5分追加”と書き込んで、テレビの画面へ視線を戻す。やっぱりやるならお奉行様がいい。なら、無礼な不届き者は成敗してくれよう。
 台所の戸棚から摺り鉢(八寸=約24.2センチ)を持ってきて、生煮えのサツマイモを底に置く。そして、「信じて、いたのに……」と呟きながら、摺り棒で最初の一撃を与えた。美汐は摺り鉢の扱いにかけては自信があった。化学実験の乳鉢も完璧にマスターしている。ごりごりという熟練の音が永遠のように響いていく。
 今回もよかった。町娘が手を振りながら去っていく。お奉行様のさわやかな顔がアップになって、画面の3/4まで大きくなって……、『終』。そのころになると、ペースト状になった芋がまるで絹のような滑らかさを誇り、つややかに、たおやかに、摺り鉢の底に佇んでいた。おいしそうに感じた自分に腹が立つ。これは罰なのに、不幸にならなきゃダメなのに。自暴自棄になった美汐は、冷蔵庫から出してきた牛乳とバターを入れて、さらにかき混ぜる。これでスイートポテトになれるのなら、なってみなさいとばかりに黙々と摺っていく。
 舐めてみると美味しかった。その、あまりの美味しさに、自分の顔を覆って泣き出したくなった。

 庭へ飛び出した美汐は、涙のたまった頬をそのままに叫ぶ。
「安息香酸エステル!」
 悲しいときは叫ばなくてはならない。本にはそう書いてある。ベンゼンカルボン酸では御利益が薄い。アミノ安息香酸エチルなら胃の痛みが消える。ピペリジノアセチルアミノ安息香酸エチルなら、胸焼けが止まる。だけど安息は訪れない。それに、食欲がなくなって便秘になるのが困る。だからこの頃は合成していない。残った錠剤は生徒会長の久瀬さんにあげた。便秘にはならなかったけど、頻尿になったらしい。どうしてだろう。
 そして、もしも、路地裏からこちらを見ている猫が”フンっ”と鼻を鳴らせて歩いてくるなら、知らないフリで雪玉をぶつけてやらなくてはならない。いつも読んでいる本にはそう書いてある。安息香酸で安息はやってこなかった。雪玉は当たらないし、猫がトマトを運んできてもくれない。季節は冬だ。
 ふと、庭の氷室に寝かせてあるキャベツを思い出す。子供の頃は、キャベツから子供が生まれてくると信じていた。どうしてキャベツなのか、誰も答えてはくれなかったけれど。子供心に、白菜とかレタスも同じなのだと勝手に解釈していた。自分は裏なりだったのかと悩んだ。……子供心に。きっと、相沢さんは輸入物のチンゲンサイから生まれたのだろう。日の光を燦々と浴びたチンゲンサイ。多分、そうだと思う。押し出しが強いし、おちゃらけているから。顎のあたりが張っているし。
 猫に向かってキャベツを振り上げながら、さすがにそれは、我ながらやりすぎかも知れないと思う。大抵は1年とか、3年とか、5年とか、きりのよい数字で来てくれる。かさ地蔵なんて、かさを被せてあげただけで、その年の暮れに”よっちらよっちら”と何人もが遊びに来てくれる。10年以上も待ちつづける自分は、やっぱり変なのだろうか。未練を引きずる悪あがきなのだろうか……。
 おみおつけの具か一夜漬けにしようと、美汐は、キャベツを抱えて家に入る。

 台所へキャベツを置き、コンロにかけた鍋の様子を確認する。ご飯はもうすぐ炊ける。モノミの丘にあるお稲荷さんへ、一日たりともお稲荷さんを欠かしたことはない。油揚げだけではバランスが悪いし、炭水化物が足りないと思う。そのせいで、お小遣いの6割3分は消える。エンゲル係数はともかく、おいなり係数はかなりのものだ。
 安い輸入品ではなく、美汐は毎朝、4丁目の豆腐屋まで国産勇気丸大豆の油揚げを買いに行く。本当にその店には勇気丸大豆と書いてある。しゃれだろうけど、おかしくない。スーパーのと比べて2倍以上する。それに、朝早くに行かないと買えないので、朝早く起きるから、朝早く起きるのが習慣になってしまい、ますます年寄り臭いと言われる。自然と目が覚めてしまうのだから、仕方ない。そう返事をするとさらに笑われる。
 おばさんくさいんじゃありません。私は、そんな人じゃないんだもん。あの子が居てくれたときは、もっと明るくて、楽しくて……、あの子は私に”可愛いね”って言ってくれたんです。心の中でそう反駁しながら、部屋へ戻った美汐は思いの丈を声に出して証明してみせる。さっきの摺り鉢に向かって。
「こんにちは、天野美汐と申します」
「こんにちは、天野美汐っていいます」
「天野美汐よ、こんにちわ」
「…………」
「やっほー、みっしーって呼んでね!」
 襖ごしに、半分隠れた母親の顔があった。その目が「ごめんなさい、ごめんなさい」と、雄弁に語りかけてくる。美汐は無言で襖を閉じた。

 こんなにアニュイな気分になるのは珍しい。黒月曜日の再来だ。ここまで来てしまったからには、とっておきの解決法に頼るしかない。とっておきの必殺技は、本当にここぞという時にしか使ってはいけない。過度の介入がスタグフレーションを発生させるように、酒飲みが依存症になるように、耐性ブドウ球菌が院内感染を引き起こすように、今年一番の寒さが連日続くように、怠惰な作者が夢オチで締めるように……、最後のはちょっと違うけれど、月並みになってしまえば特別な意味がない。起きてしまえば奇跡じゃない。
 美汐は、タンスの引き出しの奥から日高昆布羊羹を取り出すと、一本まるまま包装紙を剥く。あの子は、いつも大きい方を自分へ譲った。自分は、いつも大きい方をあの子へ譲った。二人の好物だったから。「あなたこそ、私を裏切ったりしませんよね……」。そんな風に自分を偽りながら、いざ食べようと口へ近づけたとき、ラベルのシールが目にとまった。
 賞味期限が切れていた。美汐にしては珍しく流行の最先端だが、大事に大事に取って置きすぎた。一日で腐るようなことはないけれど、一点の染みもない、処女地のように穢れない世界を求めていた美汐には許せない事だった。大きな溜息をつきながら「酷すぎます……」と呟き、さっきの摺り鉢に羊羹を沈める。ねとねとぷくぷくとペーストへ沈んでいく羊羹が、もどかしい自分の姿のようだった。飲み込まれていく羊羹が哀れに思えた。きびが悪い。「きみ」でなく「きび」だ。
 最近の若い方は言葉遣いを知らない。特に相沢さんは勘違いや言葉の乱れが酷い。真琴が変な影響を受けなければいいけれど……。と、またそんな心配が浮かんでくる。「大石内蔵助」を、ちゃんと「おおいしくらのすけ、だろ?」と答えたのは感心だったが、「最近見ないよな、あの人」と真顔で言われて困った。誰と間違えているのか気になるものの、面倒なので流した。美汐は、自分も少しは大人になった気がする。

 じっと摺り鉢を眺めていた美汐が、悪鬼と対峙するかのように摺り棒を上段に構える。そして、さめざめと泣きながら熟練の技で摺りおろしていく。摺っていると、いつも心が落ち着いた。摺り棒は今年これで3本目。棒も食べていると思うと吐き気がしてくる。でも、摺らずにはいられない。こんなときにはピペリジノアセチルアミノ安息香酸エチルがあればいいのに。だけど、残った錠剤は全部、生徒会長の久瀬さんにあげてしまった。そんなものに頼りたくなかったから。便秘にはならなかったけど、頻尿になったらしい。どうしてだろう。
 ふかしたサツマイモの黄緑と、牛乳の乳白色と、羊羹の黒が混ざって、不気味に渦巻く黒ずんだモノが出来上がる。こういうときに、少女の涙が雫となって落ちるならば詩人は大喜びだ。したたり落ちる一滴の涙が得も言われぬ味を醸しだすのだと、小説家なら書きかねない。モル濃度で考えるならほとんど無干渉で感知もできないのに。涙なんて99%以上が水。一滴くらいなら、涙でも、鼻水でも、あとほか、いろんなものでも、たいして違いはない。そこに違いは無いはずなのに……。
 残そうか、残すまいか。そんな悩みの種だった最後の金鍔を一口で飲み込み、火鉢を引き寄せる。そして、出来上がったペーストを塩煎餅に塗っては返し、返しては塗りつつ焼いていく。心が、寄せては返す海のように広く、豊かになってくる様な気がした。ちゃぽんちゃぽんと、波の音が聞こえてきそう。
 波だって、好きこのんで撃っている……もとい、打ち寄せているんじゃない。向こうへ行きたいのに邪魔な陸があるからだ。「前方に強固な障害物です」「ダメだ、この先は進めない」「戦車の支援はまだか!」「こちらチャーリー。フォックスロッド、応答してくれ」「I中隊はオレに付いてこい、側面からの攻撃を試みる!」「イエッサー」。時代劇が終わったあと、テレビでは古くさい戦争映画が始まっていた。塗っては返す手を休めてテレビを消す。
 そうだ、いつかNHKの再放送で見たポロロッカだ。突破口を見つけた波の一群が、何十、何百キロメートルも川を遡っていく。陸地へ向かって突進していく。そして、最後に、海の波のその波頭が川の水面とほとんど同じになって、ここで終わりというその時に、ぴちょんと跳ねた一滴が……、それが、相沢さんなんだ。
 そのとき、ひょっこりやってきた空飛ぶ円盤にくっついて飛ばされたのだろう。だから、あんなに変な人なんだ。だから相沢さんにだけ奇跡が起こり、自分には起こらなかったのだ。……いや、違う。そうじゃない。

 自分は宇宙船へ乗らなかったのだ。モノミの丘の全体が昼間のように光っていて、あれが蛍だとしたら、とてつもない数だと、その時思った。光の粒が飛び回り、影は全て消えていた。光の中心に相沢さんが居た。祠の影から覗いていた自分は、怖くて足がガクガク震えた。一滴くらいなら、涙でも、鼻水でも、あとほか、いろんなものでも……たいして違いはない。あんな光景を見せられたら、誰でも怖くなって力が抜ける。
 なのに相沢さんは、目をつむって丘へ立ち続けていた。かすれる声で「逃げなきゃダメです。相沢さん、なにをなさっているんですか。速く逃げるんです。それはあなたに不幸をもたらすんですよ!」って、そう叫んだのに……、微笑むような横顔は頑なに空を見上げていた。迷いのない顔だった。
 そんな強さが、自分と相沢さんの違い。逃げ出した弱さが、自分と相沢さんの違いなのだろうと思う。一度は丘を下って逃げ出したくせに、膝を摺りむきながら駆け戻った。でも、間に合わなかった。寄せては返す思い出を振り返りながら、美汐は思う。こんな私が作るお菓子は、不味くて、嫌な臭いがしていて、誰からも愛される訳がないんです、と。焼き上がったカタマリを一口囓り、美汐が呟いた。

 いずれ夏になったら、真琴と海へ行こう……。



 道すがらコンビニで肉まんを5個買い、水瀬家のドアをノックする。自分も数に入れて、5個あれば足りるのは分かっている。「10個買ってこい」とは、1人で2つ食べる気なのだろうか。いや、3個、4個、1個、1個、1個かも。少しは遠慮して欲しい。
「ごめんください」
「あら、美汐ちゃん。いらっしゃい」
 秋子さんが、いつもの微笑みで出迎える。
「お土産です」
「今日も肉まんかしら、真琴が喜ぶわ」
「皆さんでどうぞ」
「ありがとう美汐ちゃん。名雪の分は、硬くならないように炊飯器へ入れておくわね」
「天野、よく来たな」
「呼んだのは相沢さんです」
「まあ、上がってくれ」
「いったい何事なのですか?」
「そうでもしないと、来てくれないだろ」
「……魂胆がみえみえです」
「美汐、いらっしゃい!」
「あと、これも召し上がってください。私の気持ちです」
「なんだこれ?」
 祐一と真琴が、見たことのない和菓子を摘んで口に入れた。
「……形が不思議だけど、けっこう美味いな」
「美汐、美味しいよ!」
「そうなんです、自分でも美味しいと思うんです……」

 にっこりと笑って、そう答えてみる。



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