僕は今でも時々思い出すことがあるんだ。
公園の木々を揺らす風が道端に落ちている枯葉をふあっと舞い上げる時とか、急いでる朝に買ったコンビニおにぎりの封を開けてそっけない中身を頬張った時とか、お気に入りの映画のエンドロールを眺めて流れた涙の跡をそっと指でなぞった時とか。
ともかく、そんな日常の何でもない風景の隅に隠れている君の思い出を、無自覚に指の先にひっかけてしまうことがある。
悲しい記憶でも、楽しい思い出でも、寂しい光景でもなく、ただそこに在るだけの君の姿を。
ほら、そこに。
あそこにも。
ほら、ほら。
ああ、そうか。
僕が死ぬ間際に思い浮かべるのはきっと君のことなのだろうと、僕には不思議な確信がある。
僕と、シオリと、スケッチブックと。
予備校も学校と同じに、チャイムって鳴るんだ。
僕はざわめく周囲の空気に混じらず、そんなことを考えていた。ついさっき配られた真新しい参考書が机の上に整然と並べられている。乱暴に掴み、無造作に鞄の中に押し込む。
整ったものを壊すのは、なぜこんなにも気持ちいいのだろう。僕には、よく分からない。よくよく考えてみると分からないことが世の中多すぎる。こんなにも分からないことだらけの世界に生きているのに、何でお前らそんなノーテンキに生きてられんだ、と窓の外を歩いている通行人に悪態をつく。小声だったので誰にも聞かれていないはずなのに誰かに笑われた気がして、僕は早足でどこか落ち着かない空気の教室を離脱した。
外に出ると、正に春らしい陽気が僕を迎えた。当たり前のことだが、例えサクラが咲こうが咲くまいが、誰の頭上にも平等に桜は咲く。花びらを掴んで弄繰り回すことは勿論、やろうと思えばビニールシートの上に酒とつまみを広げて花見だって出来る。そんな当たり前のことに今さらながらに気付いた。無論、僕は今年花見をしていない。
ふと公園に行こうと思った。花見をしたいからではなく、ただ純粋に公園と言う場所に行こうと思った。公園と名のつく場所ならどこだって構わない。
「確か駅のすぐ近くに公園、あったよな」
僕は僕に話しかける。それを世間では独り言というらしい。世間的にはあまりよろしくない行為らしいが、世間体って言葉ほど下らないものでもないと僕は思う。
僕が今日から通うことになった予備校は、割と駅から近いところにある。これは僕の勝手な意見だが、予備校と塾の違いは、駅から遠いか近いかだと思う。勿論デタラメだ。信じてはいけない。信じてはいけないものも、世の中には吐いて捨てるほど溢れている。
『ごめんね』
最近もう慣れっこになってしまった彼女の声の脳内再生。僕の所有している脳みそのくせして、僕に都合の悪い部分ばかりエンドレスリピートする。僕は無視して歩き続ける。
やがて、割と大きな公園に辿り着いた。駅の近くにある公園だったはずが、いつの間にか全然違う所に来てしまった。どうでもいいことを考えながら歩くのは結構危険なことなんだな、と僕は他人事のように思った。こんなに駅から離れてしまっては、常識的な時間に家に帰れるのかもかなり怪しくなってくる。事実、太陽は先ほどよりも傾きかけているように見えた。
「まぁ、いいか」
呟いてみると本当にどうでもいいことのように思えてきた。僕はその大きな公園を適当にぶらついてみることにした。
公園に足を踏み入れると咲きかけの桜並木に迎えられる。この街の春は他の地域と比べてかなり遅刻気味にやってくる。桜前線も同様で、まだここの桜も割合にしてみれば6割程度だ。これでも充分春らしい陽気だが、平日だけあって流石に花見をしている輩はいない。やってきた春にうつつを抜かして馬鹿騒ぎをする連中など、居てもただ鬱陶しいだけなので、僕にとっては都合がいい。
少し歩くと広場のような所に出た。小学生らしき集団が鬼ごっこでもやっているかのように大声ではしゃぎまわり、犬の散歩をしている主婦が数人集まって井戸端会議を開いていて、隅の方のベンチには高校生らしき男女が楽しそうに会話を交わしている。それら全てを司る神のような位置取りの噴水は、一定の周期で華やかな水しぶきを生み出している。
僕はその空気に出来るだけ身体を溶かして、噴水のそばのベンチに腰を下した。
『ごめんね』
また僕の頭の隅から、彼女の声が響いた。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんね……か。
「ごめんねごめんねごめんね……」
何度か口に出してみると、口調に反してその言葉が持つ本質的な軽さが浮き彫りになったような気がして、僕は少し気分が良くなった。歌うように、僕は繰り返す。
「ごめんね、ごめーんね、ごめんー、ね」
目を閉じてしまっても構わないような気がした。
/
僕は距離なんかどうでもいいことだと思ってたんだ。
離れていても心が寄り添ってさえ居ればいいと、子供みたいに信じていたんだ。
だけど、君は本当のことを見抜いてしまっていて、僕は本当のことから目を逸らしてしまっていて。
離れてしまえばそれまでだと。
手と手が触れ合わなくなってしまえば、それで終わりなんだと君は確かに知ってしまっていた。
寄り添えるはずなんかなかったんだ。
だって僕らの中には、始めから心なんて無かったんだから。
/
目を開いたら、真っ赤に変色した太陽が僕の目を刺して、僕は慌てて手を太陽にかざした。どうやら僕は洒落で済まないくらいに長い間眠ってしまっていたようだ。腕にはめているアナログ時計を見ると、短針が五時と六時の間を指そうかという所で、僕は慌てて立ち上がろうとした。
「あっ」
短い声がしたせいか、さもなくば立ち眩みのせいだったのかもしれない。慌てて立ち上がろうとしたその時、何か強い力で押し倒されたかのように、僕はまたさっきまでのようにベンチに倒れこんでいた。
声のした方を見た。
子供たちの姿も、散歩中の主婦の声も、高校生らしき男女のシルエットも既になく、あたかも流れる時間に取り残されてしまったかのように、僕と『彼女』は夕暮れの中にいた。一定の時間を置いて溢れ出す噴水だけが、僕らに対してすら時間は平等であることを証明していた。強烈な眩暈を覚えた。
彼女はただそうであるかのようにそこに在った。短く切り揃えられた黒髪が、肩に羽織った純白のストールにかかっていた。年は大体僕と同じくらいか少し上だろうか。どちらにしてもここでこうして絵を描いていること自体が似合わないような美人だ。彼女はベンチに座った僕に正対するように地べたに座りこみ、何か魂でも込めているかのように彼女はやや大きめのスケッチブックに何かを描いている。
いや、何かではない。あれは、僕だ。
春に似合わぬ黒っぽい服に不景気な寝顔を晒して、だらしなくベンチで居眠りをしている僕の姿が彼女のスケッチブックに描き出されていた。特別に上手いわけではないと思うがその気合たるや凄まじく、僕が見ていた夢の情景まで絵に塗りこまれているような気がした。急に気恥ずかしくなる。
彼女が鋭い目で僕の方を睨んだ。
いや、睨んだのではない。彼女はただ被写体の様子を確認し直しただけだ。それが証拠に次の瞬間彼女はまた足の上に置いたスケッチブックと向き合って描きこんでいる。そう気付いてはいても、時折僕に向けられる視線の強さには少々閉口した。
「もう動いてもいいですよ」
彼女が突然口を開いた。慌てて彼女と向き直るが、彼女はもうこちらを向こうとはしない。
「もう大体終わりましたから」
よくよく考えれば、いや、よくよく考えなくても常識外の話だ。
僕には僕の用事がある。早く家に帰って母親の作る夕飯を食べなければならないし、それが済めば部屋に篭って今日の復習や明日の予習を始めなければならない。目を覚ましてからも、ずっと彼女の絵の被写体になり続けなければならない必然性なんてどこにもないのだ。
しかし、僕はなぜかそうしようとしなかった。まるで自分から進んで絵のモデルになったかのように、ずっとこうしてベンチに座り続けることを選んだ。
「いや、描き終わるまでこうしてるよ」
なぜそんな言葉が出たのか、僕にもよく分からない。まったく、この世界には理解できないことが多すぎる。
「そうですか」
彼女は僕の反応に何の感情も示さずに、ただひたすら黙々と描いている。「あっそう。じゃ、好きにすれば」とでも言いそうな雰囲気だ。僕はそんな彼女をただ眺めている。
自分の姿を黙々と描く人間を眺めるのは存外楽しかった。しっかり自分を見てくれている、という安心感にも似た感覚がそう思わせるのかもしれない。
だからそれは、あるいは一種の気の迷いのようなきっかけだったのかもしれなかった。
「ねぇ、君。名前は?」
唐突にかけられた声に、彼女は少なからず驚いているように見えた。休みなく動かされていた2Bの鉛筆はスケッチブックの上空5cmの地点でぴたりと止まり、僕に鋭い視線を向けていた二つの眼は通常よりも丸く形どられている。
「――シオリ」
「え?」
先ほど喋っていた時よりも若干小さめな声だった。僕らの間に吹く春の風のせいか、僕は彼女の言葉をよく聞き取ることが出来なかった。一度で聞き取ることが出来なかった僕を不満そうに一瞥して、彼女は再度繰り返す。
「美坂――」
もう太陽は暮れていて、夜の闇がもうすぐそこまで迫っていた。街灯の明かりが僕らを照らし、時折自己主張する噴水の水しぶきは、僕らの服を軽く濡らした。
「シオリ――シオリって、いいます」
これが僕とシオリの出会いだった。
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