グリーンスリーブスが聞こえる


 いつもの場所に立っていた。
 通学鞄から布に包まれたオカリナを取り出し、トゥートゥートゥーと軽く吹き鳴らす。
 目を瞑り、大きく深呼吸してから軽く笛に口をつける。
 そして私はいつものように旋律を紡ぐ。陶器でできた薄緑色のオカリナから紡がれる旋律。
 それは、あの子が好きだった曲。
 それは、あの子との想い出の曲。
 そして、私が大好きで大嫌いな曲。
 もう何十回も繰り返された旋律。最近は毎日のようにここに来て、繰り返し繰り返し気のすむまで同じ曲を吹き続け、その旋律に想いを乗せる。
 様々な想いを。そして、一度は諦めてしまったその想いを旋律にのせる。




Alas my love you do me wrong to cast me off discourteously
And I have loved you so long, so long, Delighting in your company.





 少し遠い春の日。
 私はオカリナを持って、私はものみの丘に来ていた。
 そのオカリナは母のオカリナ。母が学生時代に使ったオカリナだった。
 私はそのオカリナを譲り受け、最近はオカリナを吹くのを日課としていた。
 ようやくオカリナの運指を覚えたころ、母親から家ではあまり吹かないようにと言われたのだ。
 あまり夜遅い時間は吹くのを控えていたが、近所からそれと無く注意されたらしい。
 誰にも迷惑がかからず、オカリナが吹ける場所として思いついたのがこの丘だった。
 この丘は、もっと小さいときに父にハイキングにつれてきてもらって以来の、お気に入りの場所だった。
 だから、家でオカリナを吹いてはいけないと言われたときに、すぐにこの場所が思い浮かんだのだ。
 久し振りに丘に来てみるとそこは春に満ちあふれていた。柔らかく暖かな風が吹き、白詰草が咲き乱れて白い絨毯を作っていた。
 私はその絨毯の上に座り、鞄の中からオカリナを取り出すと、飽きるまでオカリナを吹き続けた。
 オカリナに飽きると、私は白い絨毯の上に座ったまま、四つ葉のクローバがないか探し回った。
 そんなことを3日ばかり続けたある日、私はあの子に出会った。


 私がいつものようにオカリナを吹いていると、3メートルくらい先にある草むらから、がさがさと草が鳴る音が聞こえた。
 最初は風が草むらを鳴らしたのだと思っていた。だから、ちらりと目をそちらに向けるだけで、そのままオカリナを吹き続けた。
 でも、次の瞬間それは間違いだとわかった。草むらからそれが顔を出したから。
 草むらから顔を出したそれは、オカリナを吹いている私をじっと見つめていた。
 最初はそれが何なのかわからなかった。だから、私はオカリナを吹きながらそれをじっと見つめていた。

 私はオカリナを吹きながら、それはオカリナを聴きながら、お互いをじっと見つめ合っていた。
 しばらく見つめていると、私にもそれが何なのかわった。
 草むらから顔を出したのは子狐だった。
 子狐はじっと私を見つめていた。
 それは、私を観察しているようにも、私が奏でる音に耳を傾けているようにも見えた。
 やがて、私がオカリナを吹き終えると、子狐は用がすんだとばかりにすぐに姿を消したのだった。

 それからも私は毎日のように丘へ行きオカリナを吹いていた。
 子狐はいつも私がオカリナを吹き始めるとどこからともなく現れて、吹き終えるとどこかへと消えていった。
 いつからか、私のオカリナはあの子狐のために吹かれるようになっていた。
 オカリナを吹いていると現れ、吹き終えると消える子狐は、私のオカリナを聞きに来ているとしか思えなかった。
 いつしか、私はその子狐と仲良くなりたいと考えるようになった。


 夏が間近に迫るある日、私は油揚げをもって丘に出かけた。
 お母さんが『狐の好物は油揚げよ』と言ったから。

 その日も私はいつものように鞄からオカリナを取り出し、演奏をはじめた。
 この頃には私のオカリナの腕もずいぶんと上がり、レパートリーもずいぶんと増えていたが、最初に吹く曲はいつも決まっていた。
 その曲はグリーンスリーブス。イギリス民謡の何となくもの悲しいその旋律を、私はとても気に入っていた。
 私はあの子狐が私の元にやって来るまでその旋律を繰り返し、子狐がやってくると、別の曲を吹くようにしていた。
 いつしか、グリーンスリーブスは私と子狐の待ち合わせの曲となっていた。


 オカリナを吹き終わった後、私は初めてその小狐に話しかけた。
「これ、おみやげです。友達に、なってくれませんか?」
 そう言いながら狐の好物の油揚げを差し出した。
 私はこの頃から、内気な性格か災いしてか友達が少なかった。
 だから、例え子狐でもこうやって自分から声をかけるのはすごく勇気のいることだったのだ。
 その勇気が通じたのか、それとも油揚げに興味を引かれただけかはわからないが、子狐は少し警戒しながらも、徐々に私のほうに近づいてきた。
 そして、しばらく油揚げをじっと見つめた後、こわごわ私の差し出した油揚げをかじったのだ。
 それが、私とあの子が友達になった最初の日だった。




Greensleeves was all my joy, Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold, and who but my lady Greensleeves.




 その日は、この北の街でも立っているだけで汗が出てくるような、そんな暑い夏の日だった。
 私は、いつものように丘に来ていた。
 その日はいくらオカリナを吹いても、あの子はやってこなかった。
 吹けばすぐに顔を見せるあの子が、ぜんぜん顔を出さないのだ。
 私は寂しい気持ちになって、今日はもう帰ろう、そう思ったときに草むらが鳴った。
 あの子が来たのかも。
 そう思って草むらを見つめていると、そこには狐がいた。
 その狐を見て私は首を傾げた。
 その狐はあの子狐じゃなかったから。
 その狐は私の方を見て、けーんと鳴くと丘の奥の方に歩き出した。
 何だろうと思ってじっと見ていると、再びその狐は私のほう見て、けーんと鳴いた。
 ついてきて欲しいらしい。私はその様子からそう判断した。
 その狐について行くと。やがて、森のような場所にやってきた。
 このまま行ってもいいのだろうかと、しばらく森の入り口で迷っていると、再び先導していた狐がけーんと鳴いた。
 やっぱりついてきて欲しいんだ。そう確信した私は、狐の後について森の中へと入っていた。


 狐の後について5分程度歩いた頃、突然目の前が開けた。
 そこは広場のようにぽっかりとあいた場所だった。
 その広場の真ん中に生える巨木の樹の下に人が倒れていた、
 私はびっくりして、かなり長い間その場に立ちつくしていた。
 何かの拍子に山鳩がばささと、飛び立つ音を聞いて我に返った。
 私はおっかなびっくりしながらも、その樹の根本で倒れている人物に近づいた。
 倒れている人物は女の子だった。年は私より、2、3歳年下だろうか? 髪の毛は肩くらいまでと短く、その色はきれいな栗色をしていた。
 その女の子は、男物のワイシャツとデニム地のオーバーオールをきているのが目に入った。
 相手が女の子と知って、私の緊張はほんの少し緩んだ。
 生きてるのだろうか? と、確認するために近寄ろうとする気持ちが生まれるくらいには。
 私はそろりそろりと音を立てないように近づいた。
 顔は向こう側を向いていたので、ゆっくりと顔が向いてる方に回った。
 その子はきれいな顔をしていた。特に怪我しているとかそういうのはなさそうだった。どうやら、寝ているようだった。
 声をかけようか? それとも放っておこうかと、しばらく迷っていると、その子はぱちりと目をあけた。
 そして、お互いの目がばっちりとあった。
 次の瞬間、彼女は言ったのだ。「美汐……」と。
 私は名も知らぬ彼女が私の名前を呟いたのを聞いて、まじまじと彼女を見返したのだった。
「なんで、私のことを知ってるの?」
「だって……」
 彼女はそこまで言うと、そのまま目を閉じてしまった。
「ねぇ、大丈夫?」
 その言葉に、彼女からの返事はなかった。
 苦しそうな感じではない。ただ眠っているだけのように見える。
 どうしようか………。わたしは、彼女をじっと見つめた。
 何度じっくり見ても、彼女に見覚えが全くなかった。
 病気なんだろうか? 病気だとしたら、このまま、放っておくのはかわいそうだ。
 それに、私のことを知っていたみたいだ。私が忘れているだけで、もしかしたら、親戚や、幼いときの友人かもしれない。
 わたしは、とりあえず、ここに戻ってくると言う意思を込めて、彼女のおなかの上にオカリナを置くと、公衆電話を探すために丘を降りた。
 お母さんに相談するために。




Thy smock of silk both fair and white with gold embroidered gorgeously,
Thy petti-coat of sendal right, sendal right, And these I bought thee gladly.




「困ったわね」
 お母さんは、彼女を見ながらそう呟いた。
「お名前は?」
「どこから来たの?」
 そう言った質問に、つれてきた彼女は首を振り続けていたから。
「わからないの。思い出せないの」
「記憶喪失なのかしら。話ではよく聞くけど、実物は初めてだわ」
 そう言って、お母さんは腕を組んで、なにやら考え込んでしまった。
「でも、私のことは知っているのよね?」
「うん。美汐」
 自分の名前も住んでいたところも思い出せない彼女は、なぜか私の名前だけは、明確に答えることが出来た。
「美汐はこの子に心当たりないの?」
 もう一度彼女のことをじっと見つめる。
 肩くらいまでの綺麗な栗色の髪。人なつこくあどけない顔立ち。私にとっては、何となく安心できる。そんな雰囲気を彼女は持っていた。
 でも、どれだけ考えてみても彼女と会ったことがあるという記憶はまったく浮かばなかった。
 私はため息をつきながら首を横に振った。
「そう。じゃあ、しょうがないわね。行くあて、ないんでしょ?」
 お母さんの聞き方は、質問ではなく確認だった。
 彼女はお母さんが予想しているように、首をこくりと縦に振った。
「じゃあ、当分の間あなたはうちの子ね」
 その言葉に、私はすごくほっとした。
 名前も住んでいた場所もわからない、だけど私の名前だけは知っている。そんな彼女をそのまま放り出したくないと思っていたから。
 できれば、うちで面倒をみてあげたいと思っていたから。
「いいの?」
 彼女はおどおどしながら上目遣いにお母さんをじっと見つめた。
「いいもなにも、あなたみたいな子を外にほっぽるわけにもいかないでしょ? 気にしないで、しばらくはうちの子になっておきなさい」
 お母さんはにっこりと笑いながらそう言った。
「じゃあ、美汐。お姉さんとして、最初のお仕事をあげるわ。いつまでもこの子のことをあなたとか、この子って呼んでるわけにいかないから、名前を付けてあげなさい」
「え? 名前?」
「そうよ、いい名前つけてあげてね」
 お母さんの言葉に困惑して彼女の方を見ると、彼女は目を輝かせながら私の方をじっと見つめていた。
「えっと、じゃあ……」
 私は、思いついた名前をその場で口にした。
 その名前に、彼女は嬉しそうに頷いた。




Greensleeves was all my joy, Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold, and who but my lady Greensleeves.




「ねぇ、美汐。オカリナ吹いてよ。オカリナ」

 自分の名前も思い出せない彼女は、なぜか私がオカリナを吹くことを知っていて、その調べを聞きたがった。
 翌日。彼女の願いを聞きいれ、私たちは丘に来ていた。
 私はいつもの場所に座るとオカリナを取り出し、そっと口にくわえる。
 私のことをきらきらした目で見つめる彼女に照れくささを感じると、私はその視線と目を合わさないように瞳を閉じ、そっとオカリナに息を吹き入れた。



Greensleeves farewell adieu adieu, and God I pray to prosper thee,
For I am still thy lover true, lover true, Come once again and love me.



 吹く曲は決まっていた。それは、あの子狐との待ち合わせの曲。
 できることなら、彼女にあの子狐と会わせてやりたかった。
 心配もしていた。
 昨日、あの子狐は来なかった。もしかしたら、私の演奏なんて飽きてしまったのかもしれない。
 それならまだいい。事故にあったり、悪い人間に捕まったりしているのかもしれない。
 だから、そんなことはないと私の元に現れて、昨日までと同じように私のオカリナを聞いて欲しい。
 そんな風にあの子狐がやってくることを願いながら、私はあの曲を吹いていた。



Greensleeves was all my joy, Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold, and who but my lady Greensleeves.



 ワンコーラス吹き終わると、すぐ隣でがさりと草が鳴る音が聞こえた。
 あの子が来たのかと思い、すぐにそちらの方を見ると、彼女が私のオカリナを寝っころがって聞いていた。
 私の吹くオカリナの調べに合わせながら、ゆったりと身体を揺らす彼女を見て残念だと思った私の気持ちは、すぐに温かく優しい気持ちに変わった。
 あの子狐は来てくれなくなってしまったけど、私のオカリナをこんなに嬉しそうに聴いてくれる人がいる。そのことがなんだか嬉しかった。
 もちろん、あの子狐のことは心配しているけど、会えないものはしょうがない。だから、私のオカリナを楽しんでくれる彼女にめいっぱい聴かせてあげよう。
 ここで吹いていれば、いつかあの子狐と彼女を会わせてあげられる。そう思い直して、私はさらにワンコーラス、グリーンスリーブスの調べを吹くと、彼女に他の曲を披露した。



「ねえ、美汐。一番初めに演奏した曲って、なんていう名前なの?」
 二人きりの演奏会が終わり、家に帰るときに、彼女がそんなことを聴いてきた。
「グリーンスリーブスっていう曲なの。叶わない想いを歌った寂しい曲なんだけど」
「そうなんだ。でも、わたしはグリーンスリーブス好き。ねえ、今度吹くときはもう少し長く、グリーンスリーブス吹いてよ」
「わかった」
 そう言うと彼女は、本当に嬉しそうに私に向かって微笑んだ。




Alas my love you do me wrong to cast me off discourteously
And I have loved you so long, so long, Delighting in your company.
Greensleeves was all my joy, Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold, and who but my lady Greensleeves.




 高い熱が出ていた。
 熱冷ましのクスリを飲んでも、彼女の熱は引かなかった。
 お母さんが看てるから美汐は学校行きなさい。その言葉で私は渋々学校に行った。
 その日は勉強にならなかった。授業が終わると掃除の当番を替わってもらって、急いで家に帰った。
 帰ってきてお母さんに様子を尋ねると、病院に行って注射打ってもらってクスリももらってきたから、しばらく様子見だよと返ってきた。
 その言葉を聞いて、私は急いで、あの子の元に飛んでいった。
「ただいま。大丈夫?」
 その声を聞いた彼女は、私を見るとにっこりと笑った。そして、私の方によろよろと手を差し出した。
 私は敷いてある布団の近くまで行き、その場所に座ると彼女の手を握った。
 彼女の手は走って帰ってきた私の手より熱かった。
「何かして欲しいことある?」
「おか、りな」
 もぞもぞと小さく声が聞こえた。
 私が鞄の中からオカリナを取り出すと、彼女は小さく笑ったように思えた。
 私は彼女が寝付くまで、ずっとオカリナを吹き続けた。


 翌日。彼女の熱はひどくなっていた。
 急いで病院につれていった方が良いな。お父さんは、そう言って会社に遅れますという電話をしていた。
「美汐は学校に行きなさい」
 お母さんはそう言ったけど、その言葉に私は首を横に振った。今日は一緒にいなくちゃいけない。なぜかそう思ったのだ。
 私の言葉に、お母さんは反対したけど、お父さんが休んで良いと許可をくれた。

 美汐はしっかり見ていてくれよ。その言葉に私はしっかりと頷いた。
 彼女はぜぃぜぃと苦しそうに息をはいて、ぐったりとしていた。
 私はお父さんと一緒に彼女を車の後部座席に乗せた。そして、私も急いで彼女の隣の席に座る。
 本当は助手席に座り、彼女を寝かしてあげた方がよかったのかもしれないが、何より私が彼女のそばについていてあげたかった。
 車が発進して急いで病院へと向かう。アスファルトを走る車の振動でさえ今の彼女にはきつそうだった。
 私はつらそうに息をはく彼女を抱きしめ、ゆっくりと私に寄りかからせた。
 彼女と触れた部分はどこも熱く、このまま溶けてしまうのではないかと、怖くなって私は彼女手をしっかりと握った。
「みー」
 彼女はすでに、私のことを美汐と呼ぶことさえ出来なくなっていた。
 呼ばれたと気がついた私は、もう一度手をぎゅっと握って彼女の顔をのぞき込んだ。
 その顔は弱々しく、命の灯火がいますぐにでも消えてしまいそうな、そんな雰囲気だった。
「大丈夫だから」
 そう言いながら、私はさらに彼女の手をぎゅっと握った。
 死んでしまうのではないか。彼女に見える死の影におびえた。
 だから、私は彼女のことを抱きしめた。彼女をつなぎ止めたくて。
「みー、あーぅ」
 彼女はそういって笑ってこっちを見て、やがてゆっくりと目を閉じた。
「病院までもう少しだから」
 そう言ったとたん、彼女を抱きしめていた私の手は、空気をつかんだ。
「え?」
 彼女はどこにもいなかった。しっかりと抱きしめていた私の手をすり抜けて、蜃気楼のように消えてしまった。
「お父さん。お父さん!」
 私はどうして良いかわからず、後の席からただお父さんを呼ぶことしかできなかった……。

「あの子は、ものみの丘の妖狐だったのかもしれないね……」
 私の他に誰もいなくなった後部座席を見て、お父さんはつらそうな声でそう言った。


 その日、お父さんはものみの丘に伝わる妖狐の伝説を教えてくれた。
 妖狐と人間の悲しい結末のお話を。



 彼女は消えてしまった。そんな悲しい現実を理解したくなかった。
 だから私は、毎日毎日オカリナを持って丘に行っていた。
 彼女が大好きなあの曲を吹いていた。
 あの夏の日の様に、私きらきらとした笑顔を見せてくれる事を祈りながら……。
 もしも、彼女があの子狐なら、あの春の日と同じように私のオカリナを聴きに来てくれると信じながら……。

 でも、彼女が。あの子が。再び私の前に現れることはなかった。



 あの子が完全に消えてしまったと私が理解したのは、次の夏休みに入ってからだった。
 それ以来、私は彼女を思い出してしまうこの曲が嫌いになり、オカリナも机の引出しの片隅にしまわれたままになっていた。





 その日はなにをするともなしに、私はこの丘の定位置でぼんやりと景色を見つめていた。
 そんな私の横に立った人物がいた。相沢さんだった。
 二人でぼんやりと丘の景色を眺めながら、『空からお菓子が降ってきたら』という、そんな他愛もない話をしたあとだった。
 そんなある日。相沢さんに2度目の奇跡が起こった。

 突然、風も吹いていないのに、草むらががさがさと鳴った。
 びっくりして、その音の鳴る方をじっと見つめる。相沢さんも、隣で鳴っている草むらをじっと見つめているのがわかった。
「な〜」
 草むらをかけ分けて出てきたのは、ねこだった。
「なんだ、ぴろか」
「ぴろ?」
「ああ、真琴がいた時分に水瀬家で名雪に内緒で飼っていたんだ。真琴がいなくなるちょっと前に、いなくなってそれっきりだったんだけどな。こんな所にいるとは思わなかったよ」
 相沢さんがそうやって呟くと、その声に応えるかのようにぴろは、なーと鳴いた。
 そして、しばらく私たちの方を見ると、再びなーと鳴き、丘の樹が生い茂る方へと歩き出した。
 しばらく歩くとまたこちらの方を向き、なーと鳴いた。
「呼んでる見たいですね」
「そうだなあ」
 私たちは少しの間顔を見合わせると、ぴろの後に付いていった。
 私はその光景にデジャブを感じた。
 ぴろが歩いて行く先も何となく予想が付く自分がいた。
 ぴろは私の予想通りの方向へ歩き続けた。
 しばらく歩いていると、私たちはぴろを見失った。
 ぴろを見失った場所は、丘の中心部にあるうっそうと茂った森の入り口だった。
「見失ったな……」
「多分こっちの方に行けば……」
 相沢さんの困った口調にそう応え、私はとある方向に向かって歩を進めた。
 ある予感を感じながら。


 しばらく森を彷徨っていると、広場のようにぽっかりとあいた場所にたどり着いた。
 あの場所だった。
 その広場の真ん中に生える巨木の樹の下にあの子がいた。
 相沢さんのあの子――真琴が。
 真琴は今までのことなど何も無かったかのように、気持ちよさそうに、大の字になって眠っていた。
 その真琴の上にぴろは座っていた。

「真琴……なのか?」

 信じたい。でも、これが幻だったら……真琴を見たときから立ちつくしてしまった相沢さんの気持ちが私にもよくわかった。
 もし、そこでここにいるのが、真琴ではなくあの子だったら、私も同じように、立ちつくしてしまっただろうから。
 そんな相沢さんの態度に、しびれを切らしたかのように、ぴろがなーと鳴いた。
 そのぴろの声は石像となった相沢さんを生身に戻した。
 相沢さんはよろよろと真琴に近づいていき、真琴の前で座り込んだ。
 そしてそっと、彼女の髪をかき上げる。
 次の瞬間、肩が震えた。
「真琴……」と小さく呟く声と、こらえきれない嗚咽。
 私はしばらく二人きりにさせてあげようと思い、そっとその場を離れた。



 私は仰向けになって空を見ていた。ただ蒼い空を。
 春先と言っても、この北の街ではまだ暖かいとは言い難かった。
 それでも、樹についたつぼみは大きくなり、春の到来を告げる花たちは、そんな中でも花を広げているものもあった。
 あの冬の日から3ヶ月。真琴は相沢さんの元に帰ってきた。
 喜ぶべきことなのに、なぜか私は素直に喜ぶことが出来なかった。
 心の奥に黒いしこりのようなものがあり、それが私に真琴の帰還を素直に喜ばせてくれなかった。
 思い当たることはあったが、今はそれを考えたくなかった。だから、私は相沢さんから声がかかるまで、じっと蒼い空を見つめるのだった。
 空からお菓子でも降ってこないかと思いながら。


 かなり長い時間、私は空を見つめていた。
 相沢さんから声がかかったのは、太陽が白から黄色に変わり始めるそんな時刻だった。
 相沢さんは目を真っ赤にしながらも、しっかりと真琴を背負っていた。
 真琴は安らかな顔をして眠っていた。
 それは、いるべきところに帰ってきたという安心感からだろうか。
 わたしは、真琴を見ていることが出来なくなって、そっと彼女から目をそらした。
「なあ、天野。悪いけど、家まで付き合ってもらえないか? このままだと、じぶんの荷物持って帰れないし」
「わかりました。とりあえず、丘を降りましょうか」
 私はそう言うと、すたすたと歩き出した。
 極力真琴を見ないようにして。


 相沢さんはなにも言わずに、黙々と歩いていた。
 いや、一心不乱に家路を急いでいたと言うべきか。
 私はその後ろを、何にも言わずについて歩いた。
 ただ、相沢さんに背負われるツインテールの後ろ姿を、ぼんやりと見つめていた。
 これは、本当に現実なんだろうかと思いながら。



「真琴。帰ってきたぞ」
 水瀬家につくと、私は相沢さんに何か言われる前に玄関の扉をあけた。
 相沢さんは、家の中に入る前に真琴の顔を見ながらそう呟いた。
 その時、再びこみ上げる何かがあったのか、相沢さんは目に涙を浮かべた。
「おかえりな………」
 玄関のドアを開ける音が聞こえたのか、すぐに奥から秋子さんがでてきた。
 秋子さんは私たちを見て石像のように固まった。理由はもちろん、相沢さんに背負われている真琴を見たからだろう。
 固まっている秋子さんに向かって、相沢さんが小さく戻りましたと言うと、秋子さんは大きなおでん種ですねと、こぼれそうになる涙を押さえながら、そう返した。
(なんでやねん)
 私はその言葉に内心そうつっこまずにはいられなかった。


 家についても眠り続けている真琴を相沢さんと秋子さんが二階の部屋に寝かせている間、私はリビングに座っていた。
 夕焼けに染まるリビングで、私はぼんやりと相沢さん達が降りてくるのを待っていた。
 帰ってしまおうか。でも、挨拶もしないで帰るのも失礼だし………。そんな手持ちぶさたの中で、私はテーブルの上に置いてあるそれに気がついた。
 それは、財布だった。女物の革の財布。そのお財布に貼られているシールプリント。
 それは、撮ったであろう日付と水瀬家と書かれ、真琴を中心に、相沢さん、秋子さん、名雪さんが囲んでいる楽しそうなシールプリントだった。
 それを見て、私は真琴がどうしてここに帰ってきたのか、その理由が何となくわかったような気がした。



 家に帰ると、私はご飯も食べずに部屋に閉じこもった。
 相沢さんが真琴を失ったとき、私は相沢さんに強くあってくださいと言った。暗い海に沈み込んだもう一人の私を見たくなかったから。
 そして、同志になってしまった相沢さんの力になってあげようを思ったから。
 今まではそんなことは思わなかっただろう。私をそんな気持ちをさせたのは、真琴のせいだ。
 あの時真琴と触れあったのは本当に僅かな時間だったけれど、あの時以来、真琴は私にとっても大切な友人になっていたから。
 だから、真琴の帰還は私にとっても嬉しいことだった。それは間違いない。
 ただ、真琴が帰ってきたという事実は、私の心に大きな衝撃を与えていた。
 それは、あの子たちが私たちの元に帰ってこられると言う事実。そして、あの子は今現在も帰ってこないと言う現実。
 相沢さんが、真琴の帰還を泣いて喜んでいる間、私はずっと一つのことを考えていた。
 どうして、真琴が帰ってこられて、どうして、あの子は帰ってこられないのか。
 その答えを私はその日のうちに、知ることになった。


 それは、想いの強さと数。
 真琴には心から帰ってきてほしいと願う人が幾人もいたのだ。相沢さん、名雪さん、秋子さん、そして私。
 あの子の時には、帰ってきてほしいと願い続けたのは私だけだった。
 その私も、途中でもうあの子は帰って来られないのだと、諦めてしまったのだから。
 だから、真琴は帰ってこれらたのだし、だからこそ、あの子はまだ帰ってこられないのだと。
 私はリビングにおいてあった財布のシールプリントを見たとき、そう思った。


 私は暗闇のなかで大きくため息をついた。
 ベッドの上で膝を抱え、じっと正面にある机を、正確には机の引き出しを見つめていた。
 そこには、あの日以来封印しているものがあった。
 それは想い出のオカリナ。あの子との想い出が詰まったオカリナがそこにはあった。
 でも、今の私にはそのオカリナを手に取ることが出来なかった。
 暗闇の中で、引き出しの奥のオカリナをただじっと見ていることしかできなかった。



 夢を見ていた。
 私にはそれが直ぐに夢だとわかった。
 だって、目の前にあの子が現れたから。
 今はもういないはずのあの子が。
 暗闇の中、あの子の姿がぼんやりと浮かび上がっているように見えた。
 あの子はあの時の姿のまま、微笑みを浮かべながら私に問いかけてきた。
「美汐。真琴はそっちにもどった?」
 それは、懐かしい声。今はもう聞くことは出来ないと思っていた声。
「ええ、彼女は戻ってきました。相沢さんのもとに」
「そっか、無事真琴は戻ったんだね。よかった」
「ええ、相沢さんは喜んでいました。水瀬家のみなさんも」
「美汐も喜んでくれたでしょ?」
「……ええ、でも……」
 真琴よりあなたに帰ってきてほしかった。と言う言葉を私は飲み込んだ。確かに真琴が帰ってきたのは嬉しいことだったから。
「えっとね。真琴から美汐のにおいがしたから。真琴が帰れば、美汐が喜んでくれると思ったの。だから、戻るために貯めてた力をあげちゃったんだ。駄目だった?」
 私が飲み込んだ言葉を理解してしまったのか、慌てて弁解する彼女。
「駄目じゃない。真琴が帰ってきて、よかったと思った。でも、私はあなたに帰ってきてほしかった。私だって、ずっと、ずっと待っているのに」
「美汐は私が帰ってくるのを待ってはいないんじゃない?」
「そんなこと……」
 明確に否定できない自分が悔しかった。私はあの時以来、あの子は帰ってこないものと思っていたから。
 でも、ずっと帰ってきて欲しいと思っていたのは事実だ。でも、私にはそれを明確に言葉に出来なかった。
「冗談だよ。美汐は、私が消えてからも、ずっと帰ってきて欲しいって思っていてくれていたよ。ずっとずっとその想いは届いていたから。本当はもう少しだったんだ。私がそっちに戻れるまで。でも。真琴は私にとって妹のようなものだから、先に戻してあげたかったの」
「そう……なんだ」
 彼女に対して言いたいことはいっぱいあったが、私は全てを飲み込んだ。
 その他にもっと重要なことを聞かないといけなかったから。
「ねえ……じゃあ、いつもどってこられるの?」
「ごめん、それは言えないの」
 彼女はゆっくりと首を振って俯いた。しばらく俯いていると、悲しそうな顔をして、顔をこっちに向けた。
「美汐、もう時間みたい。また美汐に会えて嬉しかった」
 その言葉と共に、彼女の身体が次第に闇にとけ込み始める。
「待って! 行かないで!」
「美汐、美汐のオカリナ、また聴きたい……」
 彼女は最後にそう小さく呟いて見えなくなった。

 そして、辺りは完全に闇に包み込まれた。
 私はその暗闇の中、彼女の名前を口の中で小さく呟いた。



 翌朝、目が覚めるとすぐに、私は引き出しから想い出のオカリナを取り出した。
 迷いは昨日見た夢が完全に吹き飛ばしていた。夢での出来事が真実かどうかはわからないけど、私にはあの夢があの子からのメッセージに思えて仕方なかった。
 あの子は帰ってこられないとは言わなかった。その代わり、私のオカリナが聴きたいと言ったのだ。
 あの夢の内容から、私は私が頑張ればあの子が帰ってこられるんだということを確信していた。
 あの子が帰ってこられるとわかった以上、私のやることは一つだった。
 それは、あの子が消えてから帰還を願いオカリナを吹き続けたあの時と同じように、あの子の大好きだったあの曲を吹いてあの子の帰りを待つのだ。
 私は久しぶりに取り出したオカリナを、そっと握りしめた。





 学校が終わると、私は直ぐに丘に向かった。
 いつもの定位置に立つと、私は通学鞄の中から布に包まれたオカリナを取り出した。
 陶器でできた薄緑色のオカリナ。私はそのオカリナしばらくの間じっと見つめた。
 まだ吹けるだろうか? 吹くのをやめてからずいぶんと月日が過ぎていた。
 私は不安に思いながらも、オカリナにそっと口を付けた。
 深呼吸をすると、試しにあの曲を吹いてみる。
 吹き始めると、長いブランクなど無かったかのように、指が動いた。
 私はそのまま曲を吹き続けた。あの子との待ち合わせに使っていたあの曲を。



Thy smock of silk both fair and white with gold embroidered gorgeously,
Thy petti-coat of sendal right, sendal right, And these I bought thee gladly.
Greensleeves was all my joy, Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold, and who but my lady Greensleeves.



 最後の小節を吹き終わったとき、ぱちぱちと拍手が起こった。
 私はびっくりして音が鳴った方に目を向ける。
 そこにいたのは、相沢さんだった。
 演奏している間にやってきたのだろうか?
 私はオカリナに夢中になって、全く相沢さんのことに気が付いていなかった。
「珍しいもの持ってるな」
 相沢さんはそう言いながら、近づいてきた。
「さすが天野だ。すでに12匹の悪魔を下僕にしているとは」
 私はその言葉に小さく首を振った
「私は、12匹の悪魔なんて呼び出すことは出来ませんよ。たった一匹の妖狐でさえ呼ぶことが出来ないのですから」
 その言葉に相沢さんは顔を曇らせた。
 そして、場の空気を変えようとあわてて言葉を紡いだ。
「そういえば、オカリナは剣にも鞭にもなるんだったな。
 ボンテージで鞭を振り回すのは、天野にとって新境地ではあり見てみたい気もするが、天野に似合うのはメイド服だ。まちがいない」
 私は莫迦なこと言っている相沢さんのことを無視して、私はオカリナをくわえなおした。
 放置プレイはあんまりですたいとか、呟く声をさらに無視して私は旋律を紡ぐ。
 このオカリナの旋律があの子の元に届くようにと。
 一曲吹き終わると、相沢さんがぽつりと呟いた。
「なあ、その曲、なんて言う曲なんだ? 電話の保留音とかに良く聴く曲だけど」
「グリーンスリーブスって言う曲です。イギリス民謡で、独身の貴族が旦那さんのいる女の人に恋をして、その女性に対して叶わぬ想いを歌った歌だそうです」
「恋愛の歌だったんだな」
「ええ。叶わない想いを題材にした切ない曲です。日本語の歌詞はそうでもないのですけど………。それにしても、皮肉な物です。あの子を待つ曲が、叶わない想いを題材にしてるんですから」
 相沢さんはその言葉に、少しびっくりしたような顔をして私の顔を見つめた。
「この曲は、あの子との待ち合わせの曲なんです。私とあの子の。
私はこの丘に来るとこの曲を吹き、あの子が来るのを待ちました。そして、あの子が来るとあの子にいろいろな曲を吹いて聞かせたんです。
もちろん、あの子が私の元に来てからも」
「そうだったのか。無神経なこと言って悪かったな」
「それが相沢さんの優しさだって事は、わかってますから」
 私はその言葉に小さく笑顔を浮かべながら、ゆるゆると首を振った。



 それから数日経ったある日。相沢さんは真琴と名雪さんと一緒に、丘に現れた。
「どうしたんですか?」
「良いことを思いついた。天野は気にしないで、今まで通りオカリナを吹き続けてくれ」
 その言葉に首をかしげながら真琴と名雪さんを見るが、なぜか二人とも何も言わず、にこにこしているだけだった。
 この二人が付いて来ている以上、相沢さんがなにをやっても、そんなにひどいことにはならないだろう。そう判断した私は、改めてオカリナをくわえて、いつものように旋律を紡ぎ始めた。
すると、びっくりするようなことが起こった。相沢さん、真琴、名雪さんの3人が突然私の旋律に合わせて、歌を歌いだしたのだ。



訪れた春の日よ 光あふれて
待ち続けた花は咲き 聞こえる鳥の声
心に目覚めゆく 愛の夢淡く
なつかしふるさとの 便りも楽しい



 私は思わずオカリナを吹くのをやめ、3人を見つめていた。その間にも3人の歌声は流れ、一番を歌い終わったところで沈黙が訪れた。
「一人じゃなくて、みんなでやるのもいいだろう?」
 びっくりして何もいえない私を見て、相沢さんはいたずらっ子のような顔を浮かべて言った。
「でも、迷惑では……」
 あの子のことは私一人の問題と思っていた。だから、相沢さんたちがこうやって一緒に旋律を紡いでくれるということに、私は鈍い痛みを感じていた。
「迷惑だったら、そもそもみんなでこないだろ? な?」
 その言葉に、真琴と名雪さんはこくこくと頷いた。
「それとも、俺たちのほうが迷惑か?」
 私はその言葉にふるふると首を横に振った。
 それから、私たちは何回も何回も旋律を紡いだ。
 あの子が帰ってくることを祈りながら。



 それから数日経って、全然知らない男の人がアコースティックギターを片手にやってきた。
 その男の人は相沢さんの友人で、北川さんと言った。

「相沢がな、魔獣妖狐の召喚に大量のマグネタイトが必要だから、手伝えっていうもんでな」

 北川さんは笑いながらよくわからないことを言った。ただ、北川さんが相沢さんの要請で、ここまで来たという事はわかった。



大空を雲は行き 若草はみどり
足取りも軽やかに 人は歌い踊る
かわいい天使たち 花をまきながら
山越え野を越えて 幸せ運ぶよ



 おちゃらけた雰囲気を持つ北川さんだったが、北川さんが奏でるギターの音色は優しく耳に心地よかった。



 それから一週間後、ものみの丘にまた別の人がやってきた。
 ウェービーヘアのその女の人は、名雪さんの友人で美坂さんと言った。

「名雪にね、気分転換に一緒に歌わないかって誘われたのよ。本当は来るつもり無かったんだけど……。とりあえず、今日は見学させてもらうわ」

 そう言って美坂さんは私たちの傍らに座り、演奏している私たちをぼんやりと眺めていた。
 それから一週間ほど経って、再び美坂さんは丘にやってきた。

「名雪の言うとおり気分転換にね。あと、あなたの想いにあたしの想いをほんの少し乗せてもらおうと思って。一人じゃとても出来そうにないから。あたしはあなたのために演奏することは出来ないけど、許してね」

 そう言ったときの美坂さんはとても寂しそうな目をしていた。
 それから、美坂さんは鞄の中からハーモニカを取り出し、演奏に参加した。



想い出なつかし 緑の小そでよ
つれなき別れの さびしき想い出
緑の小そでよ 愛のかたみと
はるけき想い出 わが胸に
グリーンスリーブス



 美坂さんの奏でるハーモニカの音色は悲しみにあふれていて、私には泣いているように思えた。



 それから三日後、丘にまた新しい人がやってきた。
 その人物は私もよく知っている人物――秋子さんだった。

「美汐ちゃんは、真琴が帰ってきてくれるよう心から願ってくれたでしょ? だから真琴は帰ってこられた。美汐ちゃんが美汐ちゃんの子の帰還を望むなら、その子が一刻でも早くこっちに帰ってこられるように、一緒に歌いたい。そう思っただけよ」

 秋子さんはにっこりと笑ってそう言った。



香りもゆかしき 緑の小そでよ
花咲く乙女の やさしき思い出
緑の小そでよ 愛のかたみと
はるけき想い出 わが胸に
グリーンスリーブス



 秋子さんの綺麗なアルトの歌声は、木漏れ日のように温かかった。


 これだけでも、結構な人数になっているのに、その翌週には、さらに二人の人が現れたのだ。
 それは私がよく知る人たちで、私がここに来るとは全く予想していない人たちだった。
 それは、私のお母さんとお父さんだった。

 お父さんとお母さんは、遠くにいてこちらを見ているだけだったが、その目はとても優しく、私のことを見守ってくれているのがわかった。





 丘は旋律であふれていた。
 私のオカリナに北川先輩がアコースティックギターの優しい音色を合わせ、美坂先輩がハーモニカの悲しい音色をそっと寄り添わせる。
 その演奏に、真琴のソプラノ、相沢さんのバス、名雪さん、秋子さんのアルトが、綺麗なコーラスを乗せ旋律を奏でている。
 私のあの子に帰ってきて欲しいという想いに、相沢さんが、真琴が、名雪さんが、北川さんが、美坂さんが、秋子さんが、それぞれに想いを乗せて行く。
 この曲のもの悲しい旋律は、みんなの想いの全てを受け止めて、柔らかく温かいものになっていく。


 そんな旋律にわたしはさらに想いを乗せる。

 嬉しいですよね。これだけの人があなたのことを想って演奏してくれています。届いていますか? 聞こえていますか?
 早く帰ってきて、二人でお礼を言ましょう。ずっと待ってるんです。あの時からずっと……。


 私はあの子に語りかけながら演奏を続けていた。



 そして、演奏が終わった。
 それでも、想いのこもった旋律は辺りにしばらくの間漂い続け、そして丘にゆっくりと吸い込まれていった。


 旋律の気配が消えた頃、風も吹いていないのに、草むらががさがさと鳴った。
 びっくりしてその音の鳴る方をじっと見つめる。他のみんなも後ろから固唾を飲んで見守っているのが気配でわかった。
「な〜」
 草むらを掻き分けて出てきたのは、ぴろだった。
「あ、ぴろ!」
「ねこさんだよー」
 と、真琴と名雪さんの声が響き、二人はぴろに近づいていく。
 そんな二人など気にしないといった風情で、ぴろは私をじっと見つめ、そして丘の樹が生い茂る方へと駆けだした。
「天野。追いかけるぞ!」
 相沢さんが突然私の手をつかみ、先を行く真琴と名雪さんを、さらにその先へ行くぴろを追いかける。
「覚えているか? 天野。真琴が帰ってきたあの日を」
 そう言われて、相沢さんがぴろを追いかけ始めた理由に思い当たった。


 あの日――真琴が帰ってきたあの日。今と同じように突然草むらからぴろが出てきて、しばらく私たちの方をじっと見つめた後、丘の木の茂る方へと駆けていった。
 不思議に思った私と相沢さんは、首をひねりながらぴろを追いかけたのだ。
 丘の中心部にあるうっそうと茂った森。その森の入り口で私たちはぴろを見失った、
 ぴろを探して森をしばらく歩き回ると、森の中に広場のようにぽっかりとあいた場所があり、その広場の真ん中に生える巨木の樹の下に真琴はいたのだ。

 状況は真琴の時と同じだった。そして、ぴろが走っていく方向も前と同じような気がする。

「いってきます!」
 私は相沢さんを引き止め、一緒に演奏してくれたみんなに声をかけると走り出した。
 事の成り行きを見守っていたみんなは、誰もが一様に優しい目をして頷いてくれた。



 私たちははぴろを追いかけた。

「名雪! ぴろを見失うなよ!」
 先を走っている。名雪さんに相沢さんが声を掛ける。
「わかった。まかせて!」
 そう叫んだ名雪さんは、相沢さんの口調で何かスイッチが切り替わったのか、先ほどぴろを見つけた時のようなとろけている声ではなく、澄み切った凛々しい声だった。


 ぴろが走る。名雪さんが追いかける。そのずっと後ろを、相沢さんが、私が、真琴が追いかける。
 草むらを抜け、灌木を飛び越し、ぴろの姿を追いかける。
 普段、運動をそれほどしていない私にはかなりつらいかけっこだった。でも、あきらめるわけにはいかない。
 たとえ相沢さんや他のみんながあきらめても、私だけはあきらめてはいけないのだ。同じ間違いを繰り返すわけにはいかない。
 だから、私は走り続けた。気力は充実していた。でも、体力的に走り続けるのはそろそろ限界だった。

「天野、がんばれ!」

 そう言いながら、相沢さんは再び私の手をつかんだ。
 私は小さく首を縦に振り、相沢さんにひきずられるように懸命に走った。
 脇腹がズキズキと痛みだし、そこを押さえながら、よろよろと走るのが精一杯になった。

 酸欠で意識が朦朧としてきた時、あの曲が聴こえてきた。
 走る私の後ろからあの曲が聴こえてきた。今まで私が演奏していた曲が。

 私には信じられなかった。この曲が流れてくることが。聞こえてくることが。
 丘に集まった人たちは、相沢さんを核にして集まったものだと思っていたから。
 私も相沢さんもいない中で、この旋律が奏でられるとは全く想像もしていなかった。
 でも、その旋律はたしかに私の元に届いていた。

 北川さんのギターが、美坂さんのハーモニカが、秋子さんのアルトが、私の背中を押してくれた。
 そして私をなにより元気づけたのは、その旋律に今まで加わることの無かった、お父さんのテノール、お母さんのソプラノの声が響いていることだった。

 その旋律は、私に走る気力を体力を再び与えてくれた。

 相沢さんに手を引かれ、旋律に後押しされて、私は走り続けた。


 しばらく走っていると、名雪さんが足を止めた。
 そして、困った顔をしてこちらを振り返った。
「ごめん、見失っちゃったよ」
 やっと名雪さんの元にたどり着いた私たちにかけられた声は、すごく申し訳なさそうな、悔しそうな声だった。
 私はその言葉に返事が出来なかった。長い時間走って身体が悲鳴をあげていたのだ。
 その場にがっくりと崩れ落ちると、身体が落ち着くのをじっと待つことしかできなかった。
「大丈夫? 美汐?」
 真琴は心配そうに私の顔をのぞき込み、背中をさすってくれた。
 5分ぐらいはそうしていただろうか、その頃には体もようやく落ち着いて、あたりを見渡す気力が湧いてきた。
 そこは、丘の中心部にあるうっそうと茂った森。その森の入り口に私たちはいた。

「相沢さん……」
「ああ」

 相沢さんもわかっていたようだった。この場所には見覚えがあったのだ。
 あの日も、真琴が帰ってきたあの日も、ぴろをここで一度見失った。
 わたしは、迷うことなく丘の中の森を歩いていった。
 やがて、私たちはその場所――あの広場へとたどり着いた。

 広場の真ん中にある巨木。その根本にぴろはいた。
 そして、あの日と全く同じように人が倒れていた。あの日と同じならば眠っているのだろう。
 あの日は真琴だった。でも、真琴は今、相沢さんのそばにいる。
 その人影を見て私が固まっていると、ぽんと肩が叩かれた。
 相沢さんだった。相沢さんはにこりと微笑むと、もう一度、ぽんと私の肩を叩いた。
 思わず、真琴と名雪さんに目をやると二人は優しい顔で頷いてくれた。
 次の瞬間、私ははじけるようにその人の元へと駆け寄った。

 倒れている人物は女の子だった。年は私より、2、3歳年下だろうか? 髪の毛は肩くらいまでと短く、その色はきれいな栗色をしていた。
 その女の子は、あの日と同じように男物のワイシャツとデニム地のオーバーオールを着ていた。
 あの子だった。私はおそるおそる眠っている人物に手を伸ばした。さわったら消えてしまうのではないかと心配になったのだ。
 でも、その人物は消えなかった。視界が次第にゆがんでいくのが自分でもわかった。
 一つ、二つと私の目から雫がこぼれ、あの子の服を濡らす。
 その事がなぜだか私にはすごく不思議だった。なぜなら、それはあの子がこの場所に存在しているという事だから。
 私はそんな気持ちを抱えながら、私はゆさゆさと肩を揺すった。
 それでも、そこにあの子がいるのはやっぱり夢で、消えてしまうではないかと、やっぱり名前を口に出すことは出来なかった。
 でも、心の中で何度も何度もあの子の名前を呼んだ。


「う、うーん」
 やがて、眠っていた人物が目を覚ました。
 ぼんやりとした目でしばらくばらく私のことを見つめる。
 そして、突然ぱちりと目をあけると、にっこりと笑って言ったのだ

「グリーンスリーブス、聴こえたよ。美汐」と。

「おか、えり、なさい………」

 こぼれ出る涙をそのままにしながら、私は彼女を思いきり抱きしめた。





 みんなが奏でるグリーンスリーブスの調べを遠くに聞きながら、私はもう一度おかえりなさいと繰り返した。
 彼女の身体をぎゅっと抱きしめながら。






home  prev  next