〜証言その1〜

――北川潤について知っていますか?

「え? ああ、うん。クラスメイトだしね。相沢君と仲いいよね。相沢君ってやたらモテるから、男友達って北川君くらいしかいないんじゃない? あたしは別に相沢君には興味ないけどさ。よく相沢君のおっかけ?みたいな人に相談されてるの見かけるわねぇ。彼ってなんか恋愛相談しやすいタイプだし。え? あたし? 1回だけ相談したことあるわよ。違うって、別にあたしのことじゃないの。隣のクラスにいる妹がね、デキの悪い男を好きになっちゃってさ……。あたし美坂さんとはたまに話すから、相談してみたら北川君に聞くの薦められたのよ。アドバイス? うん、的確……っていうか、すっごい役に立ったわね。おかげに妹もあいつと付き合ってるし。こら、ボタンあばれないの! で、何だっけ? 北川君がどうかしたの?」

――北川潤ってどんな人?

「どんな人……って言われても、あたしそんな知らないんだよねー。まあ、いい人だとは思うけどね。恋愛対象? ちょっ、何言ってるのよ……あたしはデキの悪い男共の相手で忙しいの」




空回りのサーカス






「……でさ、そんな風に祐一君が言うんだ。で、ボクどうすればいいのかなって……」
 行きつけの喫茶店・百花屋でコーヒーをすすりながら、北川潤はじっとその話を聞いていた。目の前にいるのは。相沢祐一が居候をしている家に現在居候をしている、月宮あゆという少女。何度か家に遊びに行ったときに会っているが、こうした相談を持ちかけられるのは初めてだった。
「別に、そんなに気にしなくていいんじゃないかな?」
 コーヒーを置いて、右手で頬杖をつきながら言う。小柄なあゆ相手だと、このくらいの体勢の方が目線が合いやすい。
「うぐぅ……気にするよ。いつまでたっても、ボクのこと子供扱いだもん……」
「相沢って、基本的に思ったこと何でも口にするからねぇ。子供扱い、って嘆くのもいいけど、つまり相沢の前で子供らしくなくなればいいんでしょ?」
「う、うん……。でも、何をすればいいんだろ?」
 ウエイトレスが、あゆの前にイチゴサンデーを置いてゆく。しかし当のあゆは、それにすら興味を示さないほど深刻な顔で俯いていた。
「そうだね。例えば今回のは、相沢が買ってきたタイ焼きを目の前にして、小躍りしちゃったことが原因でしょ? 同じことなら多分、水瀬さんや真琴ちゃんにも言ってると思うけどね。まあ、挽回策としては普通かもしれないけど、家事とかやってみたらどうかな?」
「家事? 料理とか、掃除とか、洗濯とか?」
「そうそう。料理なら水瀬さんのお母さんに教えてもらえば上達すると思うし、家事は場数こなしてこそだからね。それに家事をする女性って、女らしいしね」
 北川の言葉に、あゆはまだ不安を隠しきれない。俯いている顔を挙げ、北川と正面から向き合った。
「で、でも、ボク料理とか全然できないよ。変なもの食べさせたら祐一君に悪いし……」
「大丈夫だって。家事なんて、最初は誰だって失敗するもんだよ。まあ、無難なところで料理にするとしたら、まずは夕食あたりで腕試しだね。気をつけることは、全部作ろうとは思わないこと。献立を聞いて、一番簡単そうなのを作らせてもらうんだよ。勿論、指導してもらいながらだけどね」
「うぐぅ……それで、どうなるの?」
「夕食に月宮さんの作った料理が一品並んでて、それを相沢が食べるとする。それまでは、自分が作ったことは相沢に言わないようにね。それを相沢が食べた後、多分何か言ってくる。『これ、味付け薄いですね』とか、最悪、『なんかコレまずいですよ』とか言われるかもしれない。そこで初めて、自分が作ったことを教えるんだ」
 あゆは北川の言葉を一言一句噛み締めて、脳内でシュミレーションをする。しかしまだ不安が拭えないようで、おずおずと北川の言葉を待っていた。
「相沢は聞いた後で、間違いなく褒めてくれるはずだよ。いい出来なら、『初めてにしては上出来だ。これからも頑張れよ』。悪い出来なら、『初めてだし仕方ないけど、よく頑張ったな。今度はもっと上達して、次は食えるものにしてくれよ』みたいな感じかな。ここで重要なのは、次の約束を取り付けること。『次も実験台になってね♪』みたいなのでもいいかもね」
「……でも、そんなに都合よく進むかな……?」
「相沢は口悪いけど、根はいい奴だから大丈夫だよ。その場の雰囲気によっては、『祐一君のお嫁さんになるために頑張るよ!』とか言ってもいいかもね。水瀬さんや真琴ちゃんに怒られるかもしれないけど」
「そっか……じゃあ、早速今夜の夕食、何か作らせてくれるように頼んでみるよ」
「だね。料理も場数こなせば、いつかは必ず上達するから頑張って。そのときには、月宮さんに対するイメージも変わってるはずだからさ」
「うん、ボク頑張るよ!」
 不安の拭い取れた顔で、美味しそうにイチゴサンデーにかぶりつく。子供っぽいというのは、多分こういった行動から来ているのだろう。
 だが、性格はそう簡単に変えられるものではない。だから北川は、あえて内面の改善ではなく行動の改善といった形でアドバイスをした。それが功を奏したか、あゆの顔にはもう不安はない。ほっと胸を撫で下ろし、冷めかかったコーヒーに口をつける。
 イチゴサンデーを殲滅して、あゆは懐からがま口の財布を取り出した。
 それを右手だけで制し、立ち上がる。
「いいよ、今日は俺が奢っとくから」
 さっ、と伝票を取ってレジへと歩く。あゆが慌てた顔でそれに続いた。
「うぐぅ……さすがにそれは悪いよ」
「いいって。モテモテで奢らされ続けて、金のない相沢とは違うからさ」
 レジで会計を済ませ、外へ出る。学校が終わってすぐに入ったためか、まだ日が高い。
 横であゆが、北川に向き直って大きく頭を下げた。
「今日は、本当にありがとう。ごめんね、誘ったのに奢ってもらって……」
「だから気にしなくていいって」
 さすがに照れて、頬をポリポリと掻く。あゆは笑って、北川を見上げながら呟いた。
「北川君って、いい人だね」
 くるり、ときびすを返し、走る。そして肩越しに振り返って手を振りながら、あゆは走り去っていった。
 北川は軽く前髪をかき上げ、あゆと反対方向へ走り出す。
 ――まただ。また、あの言葉だ。



 まだ、北川が中学生だった頃、クラスメイトに気になっている少女がいた。
 朗らかで優しく、可愛い子だった――と思う。もう記憶すら曖昧だから。
 クラスメイトの中では、よく話す人間の一人だった。少なくとも、お互いがお互いのことを『友達』だと思っていたのは確かだ。北川の心には、それ以上の願望があったが。
『ね、北川君』
『ん?』
『あのさ、ちょっと話があるんだけど……いいかな?』
 胸が高鳴った。『ああ、いいよ』と素っ気なく答えたものの、期待ばかりが膨れ上がって仕方なかった。連れられて中庭まで来て、ついに、彼女が口を開いた。
『私、B組の武田君のことが好きなんだ』
 期待した言葉とは程遠い、残酷な引導。答えることはできなかった。
『でも……男の子って、どういう風に告白されると嬉しいのかな? 私って目立たないし地味だから断られるかもしれないけど、それでも気持ちだけは伝えたくて……』
『そ、そうなんだ』
 平静を装うも、見事にどもっていた。展開に頭がついていかないというのは、こういうことを指すのだろうか。
『それで私、どういう風にすればいいと思う? 自信なくてさ……』
 彼女にとって、北川は『友達』でしかなかったのだろう。秘めた想いに行き場はない。迷う心に希望はない。これが恋の終わりなら、神様、なんて残酷なのでしょうか。
『……ぶつかっていけばいいんじゃない?』
『え?』
 表情は必死に笑顔を作って。最後まで彼女にとって、いい『友達』であるために。
『別に手段を考える必要はないだろ。自分の気持ちを正直に言えばいい。男ってのは、それで十分嬉しいものだからさ。あ、ラブレターはやめとけよ。相手にその気がなかったら、回し読みされるかもしれないしな』
『それでいいのかな……?』
『いいって。何なら、俺が呼び出すの手伝ってやるよ。うまくいくといいな』
『う、うん! 良かった、北川君に相談して。こういうこと相談できるの、北川君くらいしかいなくて』
 彼女が決意したように、笑顔で言った。ちゃんと笑顔を作れているだろうか。ちゃんと良い『友達』として、相手をしてあげているだろうか。
『北川君って、いい人だね』
 その言葉を最後に、彼女が去ってゆく。気づけば、昼休みの終わりまでもう少しの時間だった。
 5時限目をさぼって、中庭の木陰で独り泣いた。




 〜証言その2〜

――北川潤について知っていますか?

「え、えっと……わたしの幼稚園の頃に同じ組だった北川さん? え? 隣のクラス……あ、そういえば、相沢君とよく一緒にいる人だよね。相沢君ってかっこいいから、よく女の子に囲まれてるよね。一緒にいる男の子、北川君くらいしか見たことないなぁ。確か、沙織が1回だけ恋愛相談したことあるらしいけど……あ、沙織っていうのは友達だよ。結局沙織はふられちゃったんだけど、それでも北川君には感謝してたよ。わたし? わたしなんかじゃ、恋された相手が迷惑だよ……。今はまだ、寝ぼすけの幼なじみで手一杯だしね」

――北川潤ってどんな人?

「どんな人……って言われてもよく分からないけど、いい人なんじゃないかな? 沙織もそう言ってたし。わたしは話したことないから良く分からないけどね」




 目覚ましのベルが鳴る。時計の針は10時を指していた。
 軽くあくびをして、半身を起こし、目をこする。日曜日は遅くまで寝られるのが良いが、かといって起きてすることがある訳でもない。北川は布団を這い出て、部屋の中央にある座椅子に座った。
 テレビのチャンネルを、適当に回す。ニュースもバラエティも、特に目を惹かれるようなものはなかった。
 そのまま、興味もないワイドショーをつけたままでぼーっとする。
 ピンポーン
 不意に、来客を告げるチャイムが鳴った。日曜の昼間に、前置きもなく部屋を訪ねてくる人間など、北川の知る限り一人しかいない。
「はーい」
 出ることもなく、その場で言う。鍵をかけていない扉が、実にあっさりと開いた。
「よう、起きてたか」相沢祐一その人である。
「まあな。どうせお前が来ると思ってたし」
「さすがの洞察力だ親友」臆面もなく言ってのけ、ずかずかと部屋に入り込んでくる。
「で、今日はどうしたんだ? また真琴ちゃんや月宮さんの遊んで攻撃から逃げてきたのか?」
「ああ」短く答えて座り込み、適当な雑誌をパラパラと開く。「あいつら、遊びまでガキだからな……。付き合ってたらこっちの体力がもたん」
「……お前、そろそろ一人に絞れよ」
 はぁ、と大仰に溜息をついて、北川が呟く。
「いつまでたっても綺麗ドコロ何人も抱えてると、友達なくすぞ。ただでさえ一部じゃ相沢ハーレムとか呼ばれてるし、第一、何人にも奢ってると財政きついだろ」
「そこが問題なんだ親友。金を貸してくれ」
「何で俺がバイトして必死に稼いだ金を幸せモンに貸さないといけないんだよ」
「まあそう言わず、今日はお前にとってもオイシイ話を持ってきたんだ」
 にやり、と祐一が笑う。北川はとてつもなく不安になった。
「話の内容によっては、1万までなら融通してやる」
「2万」
「くっ……1万5千」
「ちっ……まあいい、妥協しよう」
 なんでこいつは借りる側なのに態度がデカいのだろうか。
「で、話ってのは?」
「北川君、彼女が欲しくはないかね?」
「お前のハーレムにいる女が俺に振り向くわけないから却下」
「女の子を一人紹介してやる。勿論可愛い。勿論、男はいない」
「『はい、この子が美坂香里ちゃんでーす、以上』なんてのはナシな」
 ちっ、と祐一が舌打ちをした。どうやらする気だったらしい。
「まあ、まともに話すとだ。俺にとっては普通の友達でしかない。俺にタカるような真似もしないし、多分お前とも気が合うと思う。そこから先は知らんがな」
「俺の知らない人か?」
「んー……会ったことないはずだけどな」
 しばし考える。祐一の話を鵜呑みにすれば、かなりいい話ではある。だが――
「……悪いけど、俺好きな奴いるんだ」
 承諾することを、どこか本能で拒否してしまった。
「そっか」
 祐一は短くそれだけ返し、しかし媚びるように微笑んだ。
「でも金は貸してくれな」
「……分かったよ。1万5千な。それ以上貸すと俺がきついし」
「サンキュー。悪いな、仕送りきたら返すから」
 財布から二枚の紙幣を取り出し、祐一に渡す。いつもながら、新五千円札は趣味が悪いと思う。
「で、俺の好きな奴なんだけど……」
「あ、悪い。そーいや今日、名雪と映画見に行く約束してたんだった。すまん、これで帰るな」
「お、おい、ちょっ……」
 そそくさと祐一が立ち上がり、部屋から出てゆく。北川はぽりぽりと頬を掻いて、改めて座椅子に背中を預けた。
 どうせ同じクラスの前の席に座っているんだ。これからも、言う機会はあるだろう。
「それにしても……なぁ」
 寂しくなった自分の財布を見て、盛大に溜息をつく。あの金も数日で消えるのだろう。モテるということは、いいことばかりでもないらしい。



 結局何事もなく日曜日を満喫し、月曜日が始まる。
 始まったばかりの三年生とはいえ、受験生には変わりない。二年ではほぼ寝ていた授業も、眠気をこらえながら起きておく程度には考えも変わった。
 授業の終了を告げるチャイムが鳴る。教師が出てゆくと共に、隣の席で勢いよく立ち上がる人影があった。
「ねえ、北川君。ちょっといいかしら?」
 先程の授業中、珍しくずっと上の空だった美坂香里だった。
 どきり――と心臓が跳ねるように高鳴った。二年でクラスが同じになってから、ひそかに想いを寄せていたためか――何故か、既視感が走る。
「どうかしたか?」
「……ちょっと、相談したいことがあるの。長くなりそうだから、放課後いい?」
 既視感が強まる。表情が引きつる。それでも、なんとか笑顔を作った。
「ああ、いいよ」
「ありがと。それじゃ、放課後にここに残ってて」
 香里が自分の席へと戻ってゆく。強まる不安に耐え切れず、外を見た。空はまるで心模様を現すかのように、どす黒く曇っていた。



 昼頃から降り始めた雨は、放課後になっても止む気配を見せなかった。
 まばらになりつつある教室から、一人、また一人と去ってゆく。一人減るごとに引導が近付いてくるのを感じ、胃が痛んだ。
 ついに、北川と香里を除く全員が教室から消える。香里は相変わらず自分の席に座りながら、意を決したかのようにゆっくりと呟いた。
「……あたし、相沢君のこと好きみたい」
 予想に反せず、その唇からは残酷な引導が漏れた。
「そっか」
 短く返す。自分が今、どんな表情をしているのか分からない。救いは、香里が北川の顔を見ていないことか。
 雨の音が、ひどく耳障りだった。
「……でもさ、名雪が相沢君のこと好きなの、一目で分かるわよね。だからどうしようかってずっと悩んでるんだけど……親友と好きな人、どっちを優先したらいいと思う……?」
 香里らしい悩みだな、と思った。『優先』という言葉を使う以上、どちらかとは疎遠になることを覚悟しているのだろう。それを覚悟した上での想い。
 ここで、何と答えればいいのだろうか。香里を祐一に取られたくない。なら簡単だ。親友を優先して、好きな男は諦めろと言えばいい。材料なんていくらでも転がっている。香里がハーレムの一員になるだけだ。相沢は競争率高いからやめとけ。せっかく仲良くなった妹を敵に回すつもりか。止める言葉はいくらでもあるのに。
「……まずは、想いを伝えることからだろ」
 道化は、道化に徹することしかできない。
「相沢は病的に鈍感だから、伝えなきゃ何も始まらないさ。水瀬さんだってきっと分かってくれる。恋する女の子ってのは考え方も似てるし、波長も合うと思うしね」
 舞台の端で、嘘で彩られたダンスを踊りましょう。一人寂しく空回る、そんなピエロを御覧下さい。
「……でも、あたしは後から出てきて横取りしようとしてる嫌な女じゃないの……?」
「強引な手を使わなけりゃ、問題ないと思うよ。水瀬さんとよく話して、美坂が相沢をどれだけ好きなのかを伝えればいい。本気で好きだ、っていうのが分かってもらえれば、敵とは思われないはずさ。それに、多分美坂が勘違いしてることが一つ」
「え?」
「恋敵ってのは、敵じゃない。ライバルなんだよ」
 道化は口ばかり達者だ。荒れ狂う心は笑顔のメイクで隠される。さあさ皆様笑って下さい。想いも伝えず幕引かれた哀れなピエロで御座います。
「ライバル……そうね。お互いがお互いを高めあっていけばいいのよね……」
「それに、最後に決めるのは相沢自身さ。相沢が誰を選ぼうと、文句を言わないことだね。競争率は高いけど、頑張れよ」
 言い終えて、席を立つ。「それじゃ、これからバイトだから」幕引きの逃げ口上。
「あ、付き合わせてごめんね。あたしとした事が、つまんない相談しちゃって……」
「別にいいよ」
 きびすを返し、背を向ける。顔を向けず背中越しに手を振り、教室の扉へと歩いた。
「ありがと。北川君って、本当いい人よね」
 答えずに、教室から外へ出た。足早に歩き、少しでも早く、この場所から離れようとする。歩みはいつしか、走りに変わった。
 靴に履き替えて、雨の中を走った。目から涙が溢れて止まらない。我慢した自分を賞賛したい気分だった。
 ピエロが泣くのは、いつだって独りで舞台裏さ。



 空回る舞台の上で、たった独りで踊りましょう
 ピエロは笑う、抱えた想いは知られずに
 さあさ皆様御覧あれ、この空回りのサーカスを



 学校から随分離れて、公園に着いた。雨のせいか、他に誰も人はいない。
 雨が全てを洗い流してくれるなら、いつまでもここで雨に打たれていたかった。
 頬に付いた雨の粒は、涙と混ざって流れ落ちてゆく。制服が雨に濡れてもいい。鞄に入れた教科書に染み込んでもいい。雨よ嘲笑ってくれ。この間抜けなピエロを。
 幕引きの口上など、この唇は紡ぎません。流れるはただ嗚咽のみ。叫ぶはただ慟哭のみ。
 どれほど、雨に打たれていただろうか。涙は涸れることなく、止め処なく溢れては雨に混ざってゆく。体は冷えて、制服はひどく重くて、水を吸った髪が張りついて、しかし動けない。
「相沢……相沢……あいざわぁっ!」
 親友が悪いわけではない。しかし、気づけば嗚咽混じりにその名を叫んでいた。
 香里を恨めないから。愛しい人を恨むことなどできないから。だからせめて、その対象を変えることで自分を慰める。不出来なピエロはこうやって生きるのか。
「……呼んだか?」
 真後ろでまさに、その親友の声がした。
 北川は嗚咽を止め、引きつりながら表情を変える。無意味なことかもしれない。分かっていても、道化にはこうすることしかできない。
 ちゃんと笑えているだろうか。薄っぺらな道化の笑顔を浮かべているだろうか。
 自虐的に笑いながら、道化に徹しよう。さあさお客様、ここにおわすは負け犬ピエロ。存分に笑い、嘲り、嘆き、同情し、御覧下さいませ。
「たまには、雨に打たれるのも気持ちいいよねぇ!」
 振り向いて、大袈裟にパントマイムをするピエロ。荒唐無稽なダンス。笑顔を作っている自信はあった。慣れている。辛いことに、悲しいことに、憎いことに。
 傘もさしていない、ずぶ濡れの祐一がそこに立っていた。どこか億劫そうに顔をしかめて、貼り付く前髪を時折かき上げながら。
「……笑いながら泣くのは、気持ちいいのか?」
 珍しく真剣な眼差しで、ただ核心を呟く。馬鹿になれればいいのに。いつものように、馬鹿な話をできればいいのに。口許が動こうとしなかった。
 反論できない。泣いているのは事実だったし、赤く腫らしている自覚もあったから。それでも隠したかった。道化は舞台で泣かないものだから。
「……百花屋の前を、傘もささずに走ってく馬鹿を見かけたんだ」
 他人事のように、飄々と呟く。それが北川を指していることは明白だった。
「気になったから、名雪に会計任せて追いかけてみたんだ。そしたらこんなところで泣いてやがる」
「……だからって、お前まで濡れることないだろ……」
「傘持ってきてなかったんだよ。文句ならそうさせた馬鹿に言ってくれ」
 はぁ、と一息ついて。
「その馬鹿は親友でな」
 相変わらず、他人事のように。
「普段ヘラヘラ笑ってばっかの奴が泣いてるんだ。誰だって気になるだろ」
 あえて、北川の名前を言わずに。
「苦しんでるなら、それを少しでも軽くしてやりたいんだ。そいつには、俺が苦しんでる時に随分と世話になったからな。それが親友って奴だろ?」
「……そいつが恨んでるのが、自分だったらどうする?」
 話を合わせて、他人事のように聞く。祐一が軽く眉根を寄せ、腕を組んだ。
「一発殴らせて、話を聞く。言わないなら、言うまで待つだけだ」
 祐一が言い終える前に、北川の右拳が唸った。
 鋭い右ストレートを、祐一の頬に当てる。祐一の体がぐらつき、しかし踏みとどまって口許を拭った。雨水でぬかるんだ地面に、赤みの混じった唾を吐く。
「……てめえ、本気で殴りやがったな」
「わざわざ殴らせてくれるんだから、手加減する必要ないだろ?」
 言い終える前に、祐一の右拳が腹に突き刺さった。
「ぐえっ!」
「殴り返さないなんて誰も言ってないだろ?」
 踏みとどまって、唇を噛む。自然に、体がファイティングポーズをとった。
「上等ぉ」



 二人で地面に寝転がるまで、二十分を要した。
「……なぁ」顔中膨れ上がった北川が呟く。「話、聞いてくれるか?」
「ああ」同じく歪んだ顔をした祐一が答える。
「俺、美坂のこと好きだったんだ」
「……昨日の話で、ある程度予想はしてた」
「今日、ふられた。お前のこと好きだってさ」
 くくくっ、と笑う。道化の笑み。それは自嘲にも似ていた。
「諦めるのか?」
「ああ」本心だった。「泣いて、ケンカして、すっきりした。明日からまた、新しい恋を見つけるさ」
「紹介の話、まだ有効だぜ?」
 姿は見えずとも、祐一の顔がにやにや笑っているのが目に浮かんだ。
「年上だけとよく笑う年下みたいな人と、年下だけどおばさん臭いのどっちがいいよ?」
「……両極端だな」
「ちなみにもう1万貸せよ」
「結局それかよ」
 二人で笑う。ケンカして、二人して倒れて、体中痛いはずなのに。
 雨が心地よく体を打つ。道化は初めて、心から笑えたような気がした。







 ―――なぁ、親友―――








 〜証言その3〜

――北川潤について、知っていますか?

「ああ、何せ俺の親友だからな。俺の最高の友達で、極上の相棒さ。俺はあいつに随分と無理言ってるはずなのに、あいつはいつも笑って許してくれるんだよ。いつだったか、土を掘り起こして古臭い人形を探してるときだったよ。そのとき俺は、北川にも声かけたんだけど、多分来てくれないと思ってたんだ。一ヶ月前に来た転校生の、意味不明な頼みごとだぜ? 実際あいつのこと、結構ないがしろにしてたしな。でもあいつは来てくれて、文句も言わずに手伝ってくれたんだ。あの時に思ったよ。俺の親友はこいつしかいない、ってね」

――北川潤ってどんな人?

「いい奴だよ。人がいいとか、どうでもいいとかじゃなくてな。目立たないし、自分をアピールすることもないけど、あいつなしじゃ何も始まらない、って思わせてくれる奴さ
 ……で、こないだから北川のこと調べてるのは何でだ? 天野」

「相沢さんの紹介ですので、信用できないだけです」



END
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