平日。
昼間。
鈍行。
これほど寝るのに適した状況はない。思うが早いか視界が揺れて、目蓋がそろりとおりてくる。
とたん、とたん、と車体は鳴る。一定のリズムを刻みながら、敷かれたレールの上をただ走る。
窓の外を逃げていく町並み、電車の貧乏ゆすり、すこし乾燥したぬるい空気。俺を取り巻くなにもかもが、まるで向こうの世界から手だけ伸ばして俺を引き剥がしているかのように。
景色を見ているうちに思考さえも流されて、いつしか意識は落ちていった。
きっと隣で誰かがはしゃいでて、でもよく聞こえない。
最後に薄く目をあけると、つき抜けた空が網膜にこびりついて、とじてからも色だけが残った。
……ああ、なんだっけ。
春。
青いゆりかご
自分は寝起きがいい方だと決めつけたのがいけなかったのかもしれない。
まさか、中途半端なところで起きると、名雪よろしく寝惚けるだなんて。
放送が耳に入る。体を揺さぶられてうっすらと目をひらく。一歩遅れて自分が眠っていたことに気づき、もう三歩ばかり遅れて隣の誰かを思いだした。
「着いたよ」
まったく眠らなかったのだろう。体中をそわそわさせながら、俺を覗き込んだり、窓の外を眺めたり、車両の中を見渡したり。このこまかい動きから伝わってくる揺れが、間違いなく、電車の振動とあいまって俺を眠りへといざなった犯人である。
「あゆのせいで爆睡してしまったじゃないか」
「ボクのせいじゃないと思う……」
興奮していても頭の回転は鈍っていないようだ。
むしろ、俺の頭がまだ運動をはじめていなかった。
「よっと」
「わっ」
尻の位置をなおすついでに隣の尻を撫でる。
………………。
…………。
……。
あ。
「え、あれ? 俺? なに? いま?」
「……うぐぅ」
言いたいことをすべてその一言に込めて、あゆが俺を見上げてくる。あいもかわらず使い勝手のいい間投詞だった。それはそれ、すなおに頭をさげる。もう一回さげる。三度目はとめられた。
「これは……寝惚けてるな」
「自分で言っても説得力ないよ」
行動倫理が狂ってるのがよくわかる。一秒前の意思とまるきり反対の行為に及んでもなにも違和感がない。その証拠にホラ、さっきから反論ばかりしてくるあゆの胸に、また手が伸びて、
いなされた。
あゆは腕があがったと思う。
「祐一くん、セクハラオヤジだよっ」
「すまん、ほんとに寝惚けてる。ここどこだ?」
「んと、目的地だよ。はやく降りないと」
「あ、なるほど。わかった。荷物ってこれだけだよな?」
あゆのリュックと俺のスポーツバッグ。他には、なかったはず。
「うん、はやくいこっ」
「落ち着け、頼むから」
乗客もそれほどいなければ、降りる客もあまりいない。ホームは閑散としていて、これなら這いつくばって移動しても誰にも迷惑をかけないだろう。
這いつくばるのはあゆに迷惑がられる気がした。
「祐一くん、は、や、くっ」
「あいあい」
先走りすぎのあゆと、頭が回ってない俺。
足して二で割ればちょうどいいと思った。
「というわけで、手をつなごう」
「どういうわけ?」
「察せ」
「……うぐぅ」
まだ無邪気さが先に立つあゆは、こんなふうに人目につく場所でのスキンシップをあまり好まない。周囲に見せつけているようで恥ずかしいのかもしれない。あんな街中で俺にキスしておいて。
「ったく、あんな街中で俺にキスしておいて!」
「おねがいだから今だけはわすれてっ!」
思わず口走ってしまった。後悔なんて、ない。むしろイケイケ。
首をこき、こき、と鳴らす。血がめぐる。
「さっきからわがままばっかりだな」
「祐一くんが変なんだよっ」
「そうやってなんでもかんでも俺のせいにすればいいと思って」
「拗ねたってボク知らないもん」
あゆが拗ねる。せめて自分のことは知っておいてほしい。
まだからかい足りないが、寝起き頭からようやく調子が戻ってきた。
調子さえ戻れば、足して二で割る必要もない。
つまり手をつなぐ必要もなくなってしまった。
しばし思案。
「どうしたの?」
「というわけで、腕を組もう」
「いきなり飛躍してるよっ!」
「察せ」
「……うぐぅ」
おとなしくなったあゆの腕に、自分の腕を絡ませる。が、身長差があってうまくいかない。
「もうめんどくさいから、俺にしがみついてくれ」
「祐一くん勝手すぎ……」
文句を言いながらも、反論は無駄だと悟ったのか、すなおに俺の腕に体を寄せてきた。ん、と左腕を伸ばす。あゆがそれをおずおずと抱える。なんだかフィット。いい感じ。
合体完了、とばかりに前を向くと、改札口から顔を出している駅員のおじさんとばっちり目が合った。ホームを見渡す。他に人はいない。
彼はあゆの手に二枚ある青春18切符を今か今かと待ち構えているのだろう、と予測をたててみる。それだけならいいのだが、あろうことか、おじさんの顔には、プ、の一文字を再現したような笑顔がこびりついているのが、なんというかアレで、アレすぎて、あゆを見て、あゆはぜんぜん気づいてなくて、俺にぴっとりと寄り添ったまま頬を染めたりしてて、またおじさんを見て、今度ははっきりと噴き出されて、バフゥ、って音がここまで聞こえて、
あれだけ言っておいて俺が先に限界突破した。
「うわあぁぁぁぁあゆううう、切符、切符!」
「って、いきなりっ! なに、なに」
「いいから切符、切符!」
「う、うん、これ」
「ぎにゃぁぁぁぁぁ!!」
引っつかんで駅員さんまで全力ダッシュ。勢いに任せてはいこれ二人分っ、と叩きつける。鼻の下にゆたかなちょびヒゲ(矛盾してる気がしなくもない)をたくわえた紳士風のおじさんは、プルプル笑いをこらえながらあっさり通してくれた。
「街中、キス。広がる青空。いいね、青春だね。ブフッ」
すれ違いざまにそう耳元で囁かれて、俺の速度は増す一方だった。青空ってなんだよ、笑うなチクショウ。
「うぐぅ、待ってぇぇぇぇ」
駅を飛び出して、最寄のコンビニに一直線。前以外見えちゃいねー。
あゆは30秒遅れだった。
着きましたるは古びた温泉旅館。全室和室で露天風呂あり、渓谷沿いで飯は川魚、山に臨んで景色も良好。とくれば、もちろん天気だって決まっている!
「う…っあッくシェい!」
「つべたいよお」
そう、絵に描いたように、突然の雷雨。土砂降り。なんだこれ。
「温泉に入る前からずぶ濡れになるなんて、予想だにしなかったよ。俺たちはなんて運がないんだろう?」
「祐一くん……だれに説明してるの?」
「多くのともだちに」
「うぐぅ、だれ……」
そこは察すか、流して欲しかった。
さておき、温泉である。旅館である。
北川がやたら通で、マイナーでローカルで質のいい宿、という欲張った条件で紹介してもらった。「で、誰と行くんだ?」とニヤついてきので、お礼も兼ねて「彼女」と正直に答えておいた。奴はとても悲しそうに、無言でその場を去っていった。
「いま何時だ?」
「えっと、四時半かな」
「んー」
夕食は六時からだ。
何をするにも中途半端な時間帯。
「フロでも行くか」
「ご飯の後じゃなくていいの?」
ここで本気で心配そうな顔になるあゆは、やっぱりまだこういうところが子どもである。
「飯のあとだと暗くて景色みえないだろ? それも風情があっていいけど、ここは日が落ちる前に堪能しておこうって」
「あ! そっか。……うん、じゃあ、ボクも入ろっと」
リュックに飛びつくあゆ。中から下着やら洗面用具やらを取り出すのだろう。興味はあるが、背後から覗こうなんて真似はしない。
「ちょっとそのリュックの中を見せてくれ」
そう。男なら、堂々と要求してこそだ。
………………。
…………。
……。
あ。
「え、あれ? 俺ですか? うん? 冗談?」
「ボクに聞かれても困るよ」
すっかり性犯罪者でも見るような目つきになっていた。
「悪い、まだ寝惚けてる」
「うん、絶対うそだよね」
「実は酔ってる」
「ふうん」
じろじろ目を見られる。反射的に逸らしてしまう。
正直に言うことにする。
「いや、な。ちょっと口が滑ったんだ」
「なんか今日の祐一くん、いつもより変だね」
「それじゃ俺がいつも変みたいじゃないか」
無言。
「俺がいつも変みたいじゃないか」
無言。
「俺が」
「えい」
びしっ。おでこにチョップされる。あゆ相手に。
反応すらできなかった。あゆ相手に。
さっきから負け続きだ。あゆ相手に。
「祐一くん、ひどいこと考えてない? なんだかそんな気がするよ」
「ひどくはない。……たぶん」
釈然としない様子だったが、思い出したように俺に向き直った。
「……祐一くんも楽しみだったんだよね? 旅行。ボクだって、はしゃいじゃうくらいだもん」
一気に笑顔になって、そんなものすごいことを平然と言ってくれた。
ちゃんと考えてみる。
あゆがはしゃぐのはいつものことだとしても、この旅行は俺たちにとってまぎれもなく、初めての泊まりがけの遠出である。ずいぶん前から念入りに場所を調べて、きっちり計画を立てて、そのために買い物もして、わざわざ待ち合わせまでして……
……まあ、うん。
正直に言うとすっごく楽しみだった。
きっと、無意識にテンションが上がってしまうくらい。
「ずぼしずぼしー」
固まってしまった俺をいいことに、あゆがつんつんとつついてくる。
「……うぐぅ」
もう、そう言うしかなかった。
残念ながら混浴ではなかったのである。
猿もいない。
「俺は悲しいよ、相沢」
なのになんかいた。
豪雨の中で仁王立ち。アンテナだけが負けじとそびえ立っている。
後ろを向いているのが唯一の救いだった。
「ひとまず帰れ」
「とても悲しい」
要求を端的に述べたが、聞いちゃいない。
「もしくは旅立て」
「悲しいから、それはできない」
よくわからない論理を展開させてきた。
「うう、相沢、寒い……」
「そこに風呂があるだろう! 風呂が! おい!」
そりゃ全裸で雨にバチバチ打たれていれば体も冷える。あきらかに俺を待ち構えていた感じだし。
いろいろと訊きたいことはあるが、とりあえずは体を温めてから。
「で、なんでここにいるんだ」
二人で肩まで浸かり、雨をしのぐ。これでしのいでいると言えるのかはひたすら謎だが。
「彼女の顔を見に。ついでに相沢の様子も」
いきなりぶっちゃけられた。
「そうか。一人でか?」
「……うぅ」
悲しそうな顔になってしまった。
「いや、悪かったよ」
「いい……事実だし」
なんで俺が謝ってるんだろう。
「香里を誘って断られたんだろ」
「……うぅ」
泣き始めてしまった。
事実なら言ってもいいようなので、気にしないことにする。
「たとえ一人でも、俺は行かなければならなかった……」
「なんでだ」
「断られたついでに、じゃあ一人で行って見てきて、って笑顔で言われたから」
「……」
俺まで泣けてきそうだった。
「ババ抜き!」
「賛成! あゆちゃん、今度こそ相沢をやっつけよう!」
「もう負けないよっ」
「お前らな……」
俺とあゆの甘い蜜月のようなワンナイトカーニバルは遠い空のお星様になってしまった。
だが、オレンジ色の電球だけつけた二人部屋の奥で、にやつきながら一人神経衰弱にいそしむ北川の姿を想像すると、こうせずにはいられなかった。
会って五分ですっかり打ち解けてるあたり、もはや苦笑いするしかない。
「うっわ、ババきたぞ」
「口に出すなよ…」
あからさまにあゆと北川が組んで俺を潰しにきていた。
さっきから俺が一人勝ちを続けているから。
だってもう、こいつら、単品だと弱すぎる。
「あゆちゃん、俺の目をよく見ろ」
「う、うん」
あゆが北川から引き、北川が俺から引き、俺があゆから引く。
この上なく最悪なローテーションだと思う。
「うぐぅっ! なんでぇ!」
「あー、ちゃんとどれがババなのか顔で説明したじゃないかっ」
いきなりあゆがババを引かされてるし。
「だって、アンテナがこっちさしてたよっ」
「アンテナって言うなぁ! あと、こいつの言うこと信じちゃダメなんだぞ」
「い、生きてる……?」
息は合ってるのに、チームワークは皆無だった。
日が変わるまでカードゲームで大騒ぎして、仕上げに24時間入れる大浴場で疲れを洗い流すことにした。
あゆは一人で隣の女湯へ。覗いてみたいと思ったが、俺は言わなかった。北川もけっして口にはしなかった。この件に関しては、着替えをしながらアイコンタクトのみで一から十まで語り合った。ザ・インスタント暗黙・オブ了解。
「あいざわー」
「んー」
四つにたたんだタオルを額に乗せて、頭をへりにあずけて天井を眺める。ゆらゆらと立ち昇る湯気の動きを見ているうちに、ようやく心が落ち着いてくれた。夜だからか、湯は露天風呂ほど熱くはなく、ゆっくり浸かるにはちょうどよかった。
「……やっぱいい」
「なんだよ、気になる」
日ごろ話せないような話をするには、こういった特別な状況がいいらしい。旅行や飲み会には金を惜しむな、とかなんとか親父が言ってた気がする。飲み会はまだ早いとして、予算と相談しながらの旅行も、まだまだ続きそう。じゃあせめて時間だけは惜しむまい、と思った。
ひとつ大きく深呼吸。んううー、なんてじじくさいため息がもれる。それを恥ずかしいとは思わない夜。
「あいざわさー」
「んー」
繰り返し。なかなか切り出しにくい話をしようとしているらしい。
体を楽にしているからか、先を促そうという気はあまり起きなかった。迷ったすえに言わないなら、いま言わなくてもいいとことなのだろう。
「なあ、北川」
「うん?」
とくに抵抗もなく、なんとなく思い浮かんだことを、そのまま口に出していた。きっと、温泉に酔ってる。
「お前が来たのってさ……香里もだけど。ほんとに、あゆのことが気になったからか?」
「あー……うん、まあ、な」
北川はもっともっと砕けていいと思う。
普段はけっこう軽いくせにこういうときにだけやたら慎重になるのは、よく言って肩透かし。悪く言うと卑怯者。
「お前って実は苦労性なんだな。将来ハゲるなよ」
「う……否定できない」
冗談を交えて決心がついたのか、それでようやく本題に入った。
「……前にさ、人形を探したことがあったじゃないか」
「ああ。あんときは助かった。本当に」
「あれって、その、あゆちゃん?」
いろいろ言葉が足りてないが、言いたいことは伝わってきた。
「なんつーか……俺とあゆって幼馴染でさ。ずっと昔に、二人であれを埋めたんだ。あそこに」
「へえ」
北川は頷いた。
それからどうしたんだ、とか、そのとき何かあったのか、とか、たくさんあるはずの疑問をなにひとつ訊かず、ただひとことだけ口にして、ふっと表情をゆるめた。
「なんか、いいよな、そういのって」
どこまでもやわらかい笑顔だった。
北川は邪魔をしたくないからと遠慮したが、俺とあゆに強く引きとめられて、翌日も一緒に行動することになった。
旅館の裏の山をてっぺんまで登るとさびれた展望台があって、そこから町を見渡した。どこから買ってきたのか、北川がジュースをおごってくれた。あゆがオレンジジュースで、こっちはコーヒー。俺がブラック派だといつから気づいていたんだろう。よく見てる。
土産屋に入っていろいろと見てまわった。とくに名産品もなければ、これだというものもない。なかなかいい旅館がああして目立たずに埋もれているのも頷ける気がした。
俺は貝殻みたいな置物を買い、あゆは猫の人形を買った。名雪にプレゼントするのだそうだ。北川もなにか買っていたが、見せてくれなかった。あとでこっそり見ようと決意を固める。
「にしても、すっかり懐いたな、あゆのやつ」
余裕をもって駅まで。改札口のおじさんに18切符を渡して通ると、すれ違いざまに今度は「広がる青空、三角関係、そして修羅場。いいね青春だね、フフ。アディオス若者よ」とか言われた。紳士と変態は紙一重だと思った。
「いい子だな、あゆちゃん」
あゆはいま、その変態風紳士と話し込んでいる。二人とも笑顔が絶えず、たまに笑い声がここまで届く。電車がくるまでそうしていそうである。ほんとうは、いい人なのかもしれない。
「相沢にはもったいないな」
「お前で三人目だ」
名雪と、秋子さんと。香里にも間違いなく言われるだろう。
「みんな言うと思うぞ」
「それはいいけど、惚れるなよ?」
「……ぶはっ」
笑われた。
というか爆笑された。
「お前がそんなに笑うの、はじめてみた」
「あ、相沢おまえな、か、かわいすぎ」
「かわいいのかよ……」
むっつりする俺。どんどんご機嫌になる北川。まさか一対一でいじられるとは思わなかった。
「あー、腹いたい。……でもま、なんだかんだでお似合いだったぞ。安心した」
「……そうか?」
「バランス取れてていいよ。なんか羨ましくなった」
言って、どこか遠くの方を見る。住んでいる街がある方向。納得。
それきり会話が途切れたので、意味もなくうろついたり、景色を見たりして時間をつぶす。緑が好きになれそうな町。
ふいに、あたたかな春の風が俺と北川の間を走り抜け、ついでとばかりにあゆの髪をなびかせていく。手をかざす仕草をみて、ずいぶんと伸びていることに気づいた。あれなら性別を間違われることはないだろう。
「あったかい風だなー」
「そりゃ、春だからな」
これで駅前にストリートミュージシャンでもいれば完璧だと思った。そして、欠けているからこそいいとも思った。足りないものがあるからこそ、それを想うことができる。すべて満たされたら、当たり前になってしまう。それは、きっとさみしいことだから。
はるか上には雲ひとつない青空がひろがっていて、どこを見ても、三角関係や修羅場なんて見当たらない。ただひとつ、圧倒的な存在感をもってそこにある太陽がひょっとするとそうなのかもしれないが、よくはわからなかった。どちらにしても、今の俺に言えることはせいぜい、青春はどこにでもあるってことくらいだ。なんたって、季節は春で、空はどこまでも青くて、そして俺たちはここにいるんだ。条件なんてそれだけで十分だろ?
話し込んでいる二人のところまで走っていって、あらためて彼の顔を見た。思ったよりずっと精悍で、思慮深い人の顔だった。
「あれ、祐一くん」
「電車、きたぞ」
「え、ほんと? あ、じゃあこれでお別れだねっ」
ぺこりと頭を下げて、あゆが北川のほうへ走って行く。ついてこない俺をちらりと見たが、その横を見て、納得したようだった。
「いい彼女じゃないか」
「俺もそう思います」
「……む」
ほう、と感心したように俺を見る。
「君にはもったいないね」
「あなたで四人目です」
俺の返答がおかしいのか、くつくつと笑う。
「まったく、昨日からやられっぱなしだ。ああ、私が言うのも変かもしれないけど」
「はい」
「あっちの彼もね。応援してやってよ」
ウインクとともに。驚いて目を見開く俺。でも彼は笑わない。そういえば、北川は何度、彼の横を通ってきたのか。
ベルが鳴る。電車が近づく。俺は頷いて、手を差し出す。
あたたかくて、広い手だった。今日の空みたいに。
「あなたの青春、受け取りましたよ」
「ありがとうございます。じゃ、また」
にやりと笑う。彼の何に対してお礼を言っているのか考えたら、無性におかしくなってきて、どうしようもなかった。
またいつか来よう。来年でも、五年後でも、十年後でも。電車の中から窓越しに彼を見て、ひとつウインクを決めながらそう思った。
駅をいくつか過ぎるとぽつぽつと混んできて、俺たちが乗っている車両にも、数えるのか面倒になるくらいに乗客が増えてくる。上りだとこうなるのだと初めて知った。
席が空いているのにドアの前に立ってスポーツ新聞を広げている男性に、その向こうでよく見えないが、変な帽子をかぶった背の高い女の人の二人組みがいて、あとはみんな座席だった。親子連れやらスーツ姿の会社員やらギターケースをかついだ若者やら。
「いいないいな、相沢いいな」
「ほっとけ」
あゆはすっかり疲れたのか、乗って数分で眠りについてしまった。しかも眠り始めから、肩がこてんと俺に寄りかかっている。ボックス席を確保しておいてよかった。とりあえずは北川に笑われるだけですむから。
そして、翌日。
予想していたが、朝から大変だった。俺だけならいいのに、北川まで一緒に欠席していたせいで、さまざまな憶測がクラス中を飛び交い、ほとばしる愛の逃避行、というわけのわからない結論が出されていた。今さらだが、平日を利用した旅行だったのだ。
「ね、どこまでいったの? あ、場所じゃなくて進展度のほう」
「前からくさいと思ってたけどやっぱりそうだったんだな!」
「今度あったら俺も混ぜろ」
ゴシップ好きなクラスメイトや論点がずれている担任を放置して、屋上まで逃げてくる。それも渦中の二人で。
香里と名雪が駆けつけてくれなかったら、さらに事態は悪化していただろうと思うと、こわすぎる。
「ちょっと軽率だったわね」
「わり、面目ない」
すなおに頭を下げる。北川にも下げさせる。二人で大げさに頭を下げておいて、屋上のコンクリートと平行になった状態ですかさず目配せ。おい。なんだ。わかるな。わからん。チャンスなんだ。チャンスなのか。そうだ。おお。がんばれ。が、がんばる。
任務遂行。
「助かったけど、このまま俺と北川がいるのはよくないよな」
「そうね、あたしと名雪が来ても、あまり効果はないっぽいし」
「ねえ、なんで祐一と北川くんが噂になってるの?」
いまだによくわかってない名雪。香里が面白がってちゃんと説明しないのだろう。
「んじゃ、俺と名雪は教室に戻ろう。そのほうが自然に、かつ効果的に誤解を解ける」
「あれ、残された俺たちは?」
「時間差作りたいから、昼休み終わるまでそこにいてくれ」
「わ、わかった」
香里にも視線でお願いする。頷いてくれた。多謝。
お礼と言っちゃなんだが、会話が弾むように、ネタをひとつ提供してやろう。
名雪と屋上を出る途中、最後に大声で言った。
「ああ、香里。昨日の帽子、なかなか似合ってたぞ」
返事を待たずにしめた。
押せるだけ押したから、あとは北川の運と、実力という名のマグレに期待するしかなかった。
「気づいてたんだ……」
「アレで隠れてるつもりだったなら、そりゃ舐めすぎだ」
階段を下りながら説明する。昨日の帰りに、途中から乗り込んできた女性二人。同じ車両に乗ってきた上に、目立つ格好をしてくるとは。変装のつもりだったのだろうが、俺の視線まで釘付けにするとは思わなかったのだろうか。気づくまで、一分かからなかった。
「ま、でも、北川はわからなかったと思う。背中向けてたし」
「うー、だって、どの車両に乗ってるのかはわからないよ……」
「ほんとは隣からじっくり見たかった、か。なるほど。やっぱり狙ってやったわけだな」
「あ、うそうそ。ぜんぶ香里だよー」
「ええい白々しい」
会話しつつ教室まで。実際にそそのかしたのは香里だろうが、あの場にいた時点で罪はほぼ等しい。
名雪と一緒ですよ、北川のきの字もありませんよ、と体中でアピールしながら教室を歩く。大半はそれで納得したようだった。
「で、結局解散するまで影から見てたよな。なんか言ってたか? 香里のやつ」
自分の椅子に腰をおろして向き直る。
「うーんと、あ、言ってたよ。帰り道にね」
「ああ」
「相沢君にはもったいないわね、って」
笑い出さなかった自分を褒めたい。
「五人目だ」
きっと今ごろ、北川はクシャミにどう対応したものか苦心しているだろう。天罰てきめん。
「祐一」
「ん?」
「旅行、楽しかった?」
「まあ、な」
なんといっても終始ドタバタしっぱなし。疲れを癒すための温泉で、逆に消耗して帰ってきたのだから。
「こういうのが、俺たちらしくていいかもな」
「そっか」
名雪は笑う。
「うん、よかったよ……わっ」
ふと、教室に風が吹き込んできて、つられるように窓の外。
中庭の木々のはるか向こうに、俺の気分をそのまま乗せたようなすかっとした青が、春が、ずっと遠くまで広がっている。
俺は思う。
きっと同じように、たまに空を眺めて考えているやつがいる。
そしてそいつは、たぶんひどく泣きそうな顔になっている。
俺は、思う。
今日はたいやきでも買って帰ろうと思う。
感想
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