「二十八……二十九……三十!」

 大きく息を吐き出し、俺はだらしなく仰向けに倒れ込んだ。
 自分の部屋の床はフローリングになっていてヒンヤリとしている。
 熱く火照った体に触れた部分が妙に気持ちがいい。
 呼吸をゆっくり整えた後、疲れた体を起き上がらせ愛用のベットに腰掛けた。
 そして汗に濡れたTシャツの右の袖をまくり、右肩を露出させる。
 肩から肘までの筋肉を順番にペタペタと触ってみた。

「……はぁ」

 思わず溜息が出た。
 自分の腕ながら、貧弱なものだ。
 とにかく筋肉がなくて弱々しい。
 男らしい逞しさがまるでなく、ナヨナヨした細腕。
 
「筋肉が欲しい……」

 誰もいない部屋で一人つぶやいた。
 今度は溜息はでなかった。
 その代わりにガクリと肩が落ちた。

 俺、相沢祐一がなぜ部屋で一人、自分の筋肉を見ながら落ち込んでいるかと言うと……
 それは一週間程前の学校での出来事が原因であった。




きんにくまん





 五月も中旬に入ると俺達の通う高校は、夏用の制服の着用が許可される。
 夏用と言っても、たいした変更があるわけではない。
 学校指定の白いカーターシャツが長袖から半袖に変わるだけだ。
 要するに、暑かったら半袖を着てもいいですよってだけの話。
 しかし、ただそれだけのはずの夏服解禁の日。
 ……俺の心を砕くような出来事があった。
 
 三年になっても運良く俺、名雪、香里、北川の四人は同じクラスになる事ができた。
 そして五月のある日、北川が半袖の制服姿で登校してきた時……事件は起きた。
 最初は半袖姿の北川を見た香里の何気ない一言。

「今まで気が付かなかったけど北川君て、結構逞しい体してるのね」
「え? そうかな」

 北川は少し照れた表情を浮かべながらも、まんざらではないようだった。
 逞しいと言われて喜ばない男はいない。

「ねえ、ちょっと力コブ作って見せてよ」
「こんな感じかな?」

 北川が右腕を上げ、力を込めると男の俺でも驚く程筋肉が盛り上がった。

「すごーい! かっこいいよ」
 
 名雪が歓声を上げ、パチパチと拍手した。
 
「鍛えてるわね。ちょっと触ってみてもいいかしら」
「なんだか恥ずかしいけど、かまわないぜ」
「香里ずるいよ……じゃあ、せっかくだから私も」

 しばらくの間、香里と名雪に絶賛されながら筋肉を触られる北川。
 褒められている時の北川は、ものすごく嬉しそうだった。
 触られている時の北川は、ちょっと興奮しているように見えた。
 ……なんかムカついた。
 明らかにただの嫉妬ではあるが。
 まあ、しかし、ここで終わっていれば別に何でもない事だったのだ。
 問題はこの後、おそらくは何の悪気もないであろうみんなの言葉。

「祐一はちょっとほっそりしてるから、対照的だよね」
「そうね、相沢君に比べたら、北川君の方が夏向きかも」

 俺は特に何も言わず、ただ愛想笑いを浮かべていた。
 まあ、その通りだと思ったし。
 北川が、興奮冷めやらない赤い顔のまま、笑顔で俺の肩を叩いた。

「相沢、気にするなよ。筋肉なんて俺達受験生には全く必要ないしさ」

 いつも明るく気さくな北川が、嫌味ではなく本心でそう言ってるのは俺にもよく分かっていた。
 だから俺は北川にも”気にしてないよ”と頷いてその場は終えた。


 ……が。
 実際はメチャクチャ気にしていた。
 思春期バリバリ謳歌中のこの俺が、友人に肉体的に劣る部分があって、気にしないわけがない。
 しかも、相手は北川だ。
 どっちかと言うと、俺がイジリ役で向こうがイジラレ役のはずだ。
 すさまじく嫉妬していた。
 実際その日の夜は悔しくて眠れなかった。
 俺だって、逞しいってキャーキャー褒められたいつーの!
 女の子達に筋肉を思いっきり触られ、揉まれ、弄ばれたいつーの!
 自分より逞しくない友人に優しい言葉でフォロー入れて、優越感に浸りたいつーの!
 しかし、いくら頭の中でそんな事を考えていても、逞しくなれるわけではない。
 次の日から俺は、筋トレを始めた。
 毎日朝晩に腕立て伏せ、腹筋、背筋をすることにしたのだ。
 北川より逞しい肉体を手に入れるために。


 それから二週間が経過したのが今日。
 あれから朝晩のトレーニングを一度も欠かしたことはない。
 どんなに辛くても、体に鞭打って頑張った。
 その証拠に俺の腕、肩、腹、背中は激しい筋肉痛に襲われている。
 しかし、それらを代償に得たものは……なにもなかった。
 腕だって相変わらず細いし、頼りないままだ。
 たかだか、二週間で大きな成果が出るほど甘いものではないのは理解できていたが。
 まったく効果が表れないのは納得できなかった。

「……はあ」

 だから俺はこうして、部屋で自分の腕を見ながら溜息をついているのだ。 
 ひょっとしたら、体質的なものかもしれない。
 太りやすい人は、脂肪もつきやすいが、きちんと鍛えれば筋肉もつきやすい。
 逆に痩せている人は、脂肪もつきにくい代わりに、鍛えても筋肉もつきにくい。
 という話を聞いたことがある。
 もし、俺が後者ならいくら鍛えても北川より逞しくなることはできないのかもしれない。
 俺は体中に無駄かもしれない筋肉痛を感じながら……
 もう何度目かも分からない溜息をついた。

「……はあ、筋肉が欲しい」
「なるほど。男の子らしい悩みですね」
「そうなんですよっ……て、わっ!]
 
 まったく予想しなかった突然の声に俺はビクッと体を震わせ、声の主を見上げる。
 半分だけ開いた自室のドアの前にいたのは……この家の主であり、名雪の母親である、秋子さんであった。

「あ、秋子さん! 驚かさないでくださいよ」 
「ごめんなさいね。部屋の外まで祐一さんの溜息が聞こえたんで、つい心配になって」 
「ははっ、かまいませんけど……そんなに大きな溜息をついてましたか?」
「ええ、とっても」

 やさしく微笑む秋子さんを前に俺は赤面しながらも、必死に愛想笑いを浮かべる。
 かなり恥ずかしい……
 部屋で一人”筋肉が欲しい”とか呟いてるのを見られたんだから。
 トレーニングの際に熱気がこもらないように、ドアと窓を半開きにしていたのが失敗だった。
 これじゃ俺って完璧に変な奴だ。
 本気で穴があったら入りたい。 
 赤い顔を抑えながら唸る俺をみて秋子さんがクスクスと笑う。

「気にしないで下さい。年頃の子が自分の体について悩みを持つのは自然な事ですから」
「そ、そうですか」
「ええ、もしよかったら相談してくださいませんか?」
 
 そう言って秋子さんは俺のベットの横に腰掛けた。
 面倒見のいいこの人のことだ。
 少しでも、俺の力になろうとしてくれるんだろう。
 ……どうでもいいけど、今の会話のやりとりの後、ベットに腰掛けられた瞬間。
 ”体の悩み”について”相談”に乗ってくれると言う秋子さんに、エロい妄想を抱いたのは秘密だ。
 一瞬だから、ほんの一瞬!
 俺は気を取り直して、秋子さんに相談することにした。
 話にくい気もしたが、二週間もの間、トレーニングをしていたにも関わらず、全く効果の見えない自分の体に俺は限界を感じていた。

「なるほど、よく分かりました」

 俺の話を聞き終わると秋子さんは小さく頷き、しばらく考える素振りをした後。
 不意にいつもの余裕を感じさせる微笑を浮かべた。

「祐一さん……ちょっと失礼しますね」
「わ、わぁぁぁ」

 俺は悲鳴を上げた。
 突然、秋子さんが俺の体をさわり始めたからだ。
 腕やら、肩やら腹筋を時には優しく、時には強く。
 
「やめてくださいよ!」
「今、チェック中ですからお静かに」

 結局さわられていたのは五分程だったと思う。
 口では拒否していた俺ではあったが、結局は秋子さんが納得するまでされるがままであった。
 だって、秋子さんの手って、ちょっとヒンヤリしていたけど、柔らかくて……気持ちがいいのだ。
 正直、やばかった。
 ……何がって、もうイロイロだよ。
 ドキドキしっぱなしで、平常心をまったく保てていない俺とは対照的に、秋子さんは冷静に話し始めた。

「祐一さんの筋肉は今、ものすごく疲労しています。筋繊維はズタボロです……今、筋肉痛が酷いでしょう?」
「はい、実はそうなんですけど、何かまずいですか?」

 筋肉痛ってのは筋肉を鍛えてるから起こるものだから、筋トレしてる以上はなって当たり前ではないのだろうか。
 俺がそう尋ねると秋子さんは手で頬を抑えながら、困ったように首を横に振った。

「たしかに筋肉を鍛えると筋繊維が切れてしまうので、筋肉痛になるのは当然です。ただ祐一さんは筋肉痛が治ってないうちから筋トレを始めてませんか?」
「はい」
「筋肉はその傷ついた筋繊維が回復する時に、前以上の状態になろうとする、それを超回復と言います。これが筋トレにより筋肉が成長する理屈です」
「えっと、つまり?」
「はい、祐一さんは過酷な筋トレをやりすぎです。そのために筋肉が超回復する前にまた筋繊維が傷いています。これでは筋肉が成長する暇がありません」

 俺はショックを受けていた。
 多分俺の今の表情を見た秋子さんには”ガーン”という擬音が聞こえていたことだろう。

「つまり、筋繊維が回復する前にやる筋トレって……」
「はい、効果はほとんどありません。筋トレは筋肉痛がなくなってからやるべきです」

 そうだったのか……俺はただ筋肉を痛めつけるだけで、成長させていなかったのだ。
 筋肉痛の体で、キツイトレーニングを……
 ただ、無駄に辛いトレーニングを繰り返していたのだ。
 目から鱗がこぼれ落ちたとはこの事だ。
 あれは隣に座る秋子さんのガッと詰め寄った。

「秋子さんって、本当になんでも詳しいですね!」
「いえ、筋肉に関してだけなんですが」
「だけ、ですか?」 

 少しだけ困ったように頬を赤らめた秋子さんは、ポケットに手を入れて定期入れのようなものを取り出した。
 そして、そこから一枚の写真を取り出す。

「見て下さい」
「えっと……この写真は?」

 写真に写っているのは上半身裸の大柄な男性だった。
 色黒なその男性の特徴は一目瞭然……筋肉だ。
 丸太のように太い腕、鉄板のように盛り上がった胸、俺の倍以上はありそうな太い首……それらを強調するような逞しいポーズで二ッと笑っている。
 色黒な体には不釣合いな程白い歯が印象的だった。
 ……どっからどうみても体毛を剃ったゴリラだ。
 絶対にそれ以外の生き物でもないと思う。
 不自然なほどムキムキだ。
 少なくとも人類よりはゴリラに限りなく近い生き物だと思う……とんでもなく暑苦しい。

「このゴリじゃない……この逞しい人は?」
「……亡くなった主人です」
「えぇぇぇ!」

 俺は悲鳴に近い声を上げた。
 何がビックリかと言えば、秋子さんの旦那がゴリラだったことではない。
 まあ、それでも美女とゴリラで驚きなんだが。
 それ以上に名雪の父親がゴリラだって事に驚いた。
 つまり俺の身内にゴリラがいたということだ
 しかし、どう見ても名雪にはまったく似ていない。
 俺は今最高に神に感謝している。
 名雪が母親似に生まれたことに。
 ゴリラ要素よりが美女要素の方が優性遺伝だったことに。
 もし、名雪が父親にそっくりだったりしたら……俺は絶対この街に戻っては来なかった。
 あの冬の日ベンチで再会なんてしなかったね。
 俺はゴリラ名雪に”これ、遅れたお詫び”とか言って缶コーヒー渡されたとしても……
 ”まずおまえが俺の従姉妹に生まれてきた事を詫びろ!”とか言って受け取り拒否して、外国の親父たちを追っかけたね。
 物語は冒頭で終了ですよ、マジで。
 本当に神様ありがとうございます。
 今日から無神論者はやめます。
 しかし、なんで秋子さんはゴリラと結婚したんだろう?
 ボランティアか?

「素敵な人でしょう」
「…………………そうですね」

 ヤバイ……肯定するのに10秒くらいかかってしまった。
 なんでもできて完璧に思える秋子さんの唯一の弱点は……
 人間よりオスゴリラに男性としての魅力を感じてしまう趣味の悪さだったのか。
 かなりドン引きの俺を無視して、秋子さんは写真のゴリラを恋する少女の瞳で見つめながら話し始める。

「太くたくましい砲丸のような上腕二等筋、盛り上がった分厚い大胸筋、均等に割れた美しい腹筋、肩に逆三角形のシルエットを作り出す三角筋……体中を覆う鎧のような筋肉はすべて無駄がなくて、ああ……素敵ですよね」
「…………………………………………そうですね」

 ヤバイ……肯定するのに今度は20秒くらいかかってしまった。
 なるほど実は重度の筋肉フェチだったか。
 ゴリラではなく、筋肉と結婚したんだ。
 まあ、筋肉フェチの方がゴリラ好きよりはマシな気がする。
 筋肉が多いゴリラが好きなだけという可能性もまだあるが。
 秋子さんはしばらくの間、旦那であるゴリラの筋肉がいかに素晴らしいかを語っていたが……

「筋肉についてはかなり詳しいので、祐一さんに正しい筋トレ方法をお教えしましょう」

 と比較的無難な締めで、旦那自慢だかゴリラ自慢だかは終了した。
 まあ、写真のゴリラみたいになりたいとは1ミクロンも思わないが、俺も今よりは逞しくなりたいとは思っている。
 この部分だと秋子さんは、ものすごく真剣に、的確な指示で俺を鍛えてくれそうな気がするし。
 だって、趣味が絡んできてるから。
 俺はムキムキになりすぎないように気をつけるようにしよう。

「では今日から特訓を始めます!」
「はい! お願いします!」
「祐一さん、私についてくれば……胸筋が盛り上がりすぎてスリーLサイズのTシャツがきれない程のマッチョになれますよ!」
「……それはちょっと」

 そうなったらどこで服買ったらいいんですか……
 この人なら、マッチョ用の服を自作しそうで怖いから、聞かないでおこう。
 珍しくテンションの高い秋子さんに適当に話をあわせながら、俺は程ほどに気合を入れるのであった。



 次の日から始まった秋子流筋肉トレーニングは、俺が思っていたものとは少し違った。
 あんなゴリラみたいな筋肉を目指すわけだから猛特訓の覚悟はしていたのだが。
 まず驚いたの筋トレの日数だ。
 俺は二週間の間毎日、朝晩の筋トレをしていたんだから週14回の筋トレをしていたのだが……
 秋子流ではほんの週三回。
 ただし、その三回の内容は比較的濃い。
 秋子さんが用意したダンベルや通信販売っぽいトレーニングマシンを使って体にキツイ負荷をかけてのトレーニングだ。 
 順番に体中の筋肉を使う為、色々な姿勢でダンベルやバーベルを持ち上げたり、脚を高い位置においての腹筋をしたり。
 自分が全力でやれば辛うじて10回ほどをできるという、ギリギリの重さや負荷で繰り返す。
 しかし繰り返すといっても、それぞれその10回を3セットやる程度で、確かに最終的には筋肉は相当疲労するし、次の日は筋肉痛になりはするが、時間が短いので耐えられないものではなかった。
 そして、次に筋トレするのは筋肉痛や疲労がなくなった日。
 たったそれだけ。
 大切なのはどこの筋肉を使っているかを意識して集中してやることと、きちんと回復してから次の筋トレを始めることと教わった。

 次に始めたのは食事の改善。
 別に減量しろと言われたわけではない。
 ただ、炭水化物を減らし、たんぱく質を多くとるようになっただけ。
 と言っても朝は今まで通りだったし、昼も揚げ物が減った程度で、あまり変わらない食事に思えた。
 夜だけ白いご飯の量が減ったかわりに、大豆製品や魚類が多く出るようになったくらい。
 秋子さんが料理上手なせいか、不満などまったく感じず、むしろこんな程度でいいかと心配する程だ。
 ひょっとしたら、元々栄養バランスなんかは考えて料理していたので修正は僅かだったのかも。
 実際、毎日一緒に食事している名雪が、食事の内容に変化があるのにまったく気が付かないようだし。

 まあ、ただひとつ不満があるとすれば……
 筋トレの直後と、就寝前に。
 あのジャムを食べさせられるようになったことだ。

「筋トレの後にジャムって聞いたことがないんですが?」
「このジャムは特別ですよ。ウチの主人もいつもトレーニングの後には美味しそうに食べていました」

 秋子さんがジャムの瓶を大事そうに抱えながら、懐かしそうに話す。
 疑うわけではないが、ゴリラと人間を同列に考えられても困る。
 たとえ祖先が一緒だとしても、遺伝子だかDNAだかが似てるとしても……秋子さんの主人はゴリラで、俺は人間なのだ。

「できれば納得できる説明をしてほしいんですが……」
「ええ、筋肉が成長するにはたんぱく質が必要不可欠です。いくら筋トレをしてもたんぱく質を摂取しなければ筋肉は成長しません。そのたんぱく質がこのジャムには豊富に含まれています」
「そのジャムにですか? 普通はたんぱく質って肉や魚に多く含まれてるのでは?」
「はい。ですからこのジャムにもたくさん含まれています」
「え? そのジャムに!」
「……はっ!」

 秋子さんの表情が一瞬曇り、とっさに俺から目を逸らす。
 ……今の、”ですから”より後の説明を失言だと感じているのだろう。
 普通のジャムはイチゴやらリンゴやら、果物からできているものだが……
 そのジャムは肉か魚か、なんかの”生き物”が原料ってことだ。
 怖っ! そんなジャム、怖すぎだろ!

「秋子さん……教えて下さいよ、そのジャムの原料を」
「たんぱく質にはいくつかの種類がありますが、その全てが筋肉を成長させるのに適しているわけではありません! 特に筋トレに向いてると言われるのは吸収がはやいホエイタンパクと呼ばれる種類のものになります!」

 俺の問いを、サッカー日本代表も驚くような見事なスルーでかわしながら、秋子さんは話始める。

「このジャムの成分は……なんと! 82%がホエイタンパクなのです! 」 
「いや、だから……そのジャムの」
「トレーニングをした後の30分以内は”筋肉のゴールデンタイム”と言われ、その間に効率よくたんぱく質を取れば、筋トレの効果は倍増します! 筋肉アップを望む祐一さんは、このジャムの摂取を絶対に逃してはいけません!」
「あの、原料……」
「原料のことは大丈夫です! バレなければ犯罪にはなりせんから!」

 ……聞かなければよかった。

 まあ、ジャムは実際に通常ではありえないレベルの効果を発揮してくれたと思う。
 秋子流筋トレで俺の体は急激に変化していった。
 ドンドン太くなる腕、シャツが日々小さくなっていくと感じるほど厚くなっていく胸筋、ボクサーのように割れていく腹筋。
 この筋トレ方を書いた本でも作ったら、バカ売れするんじゃないかと思える速度で、自分がマッチョになっていくのを日々感じていた。
 俺の筋肉が逞しくなっていくたびに、秋子さんは喜び、筋肉を触ろうとするようになった。

「祐一さんたらすぐ大きくなってしまうんですね。若いから回復力もすごく早いし……私の言う通りにしていたらもっともっと大きくしてあげます……」

 そんな事を言いながら、ウットリ顔で俺の筋肉を愛撫する。
 しかも長時間……
 いや、その台詞とか、もうギリギリですから。
 でも、秋子さんがナデナデしてくれるから……俺、頑張っちゃいますけど!


 秋子流筋トレを開始して一月半ほどがたった頃だろうか……
 
 俺はすでに北川をはるかに上回るほど、逞しい肉体を手に入れていた。
 最近は周囲の俺を見る目が明らかに変わってきている。
 すれ違えば誰もが振り向くし、女子からはよく噂をされているようだ、不良っぽい生徒も向こうの方から目を逸らすようになった。
 特に仲のいい名雪や香里は何気ない俺との会話の中でも、こっそりと俺の筋肉を見ていることに俺は気が付いている。
 ……ふふふっ! 俺の時代が来たのだ。
 この分ではもうすぐだろう。
 逞しいってキャーキャー褒めらちぎられるのは!
 女の子達に筋肉を思いっきり触られ、揉まれ、弄ばれるのは!
 自分より逞しくない友人に優しい言葉でフォローを入れて、優越感に浸れるのは!
 俺がそんな事を考えるようになった頃だった。
 その日の全ての授業を終えた終礼前、名雪と香里と三人で話している時、ちょうど上手い具合に話が俺の筋肉の話に移った。

「そういや、相沢君って最近随分と逞しくなったわね」
「そうだよね。祐一変わったよ」
「そ、そうかな?」

 ついにきたぁぁぁ! 
 表面上はできる限りこの話題には興味がないように見せながらも、実際の俺の心は踊りだしそうな程にハイになっていた。
 半袖の袖をめくり、腕に力を込め筋肉を盛り上げさせる。
 俺の筋肉の逞しさに驚いたようで、香里の目が大きく見開かれた。

「最近、ちょっと筋トレするようになってな」
「ねえ、相沢君、その筋肉……」

 ついにくる!”触らせて”コールが!
 謎ジャム食いながら頑張った甲斐があった!
 せっかくだから、少しだけもったいぶってから触られてやろうかな……とかついつい調子に乗ったことを考えてしまう。
 しかし、香里が放った言葉は俺の予想とは違うものだった。

「はっきり言って……気持ち悪いわよ」
「……へ?」

 香里のまったく予想していなかった言葉に俺は思わず目を点にした。

「いくらなんでもムキムキすぎ。暑苦しいし、高校生らしくない」
「……マジで?」
「ええ、なんでそこまで鍛えてるのかは知らないけど……最近女子の間でもあたしと同じ意見をよく耳にするわ」
「……女子達が気持ち悪いと?」
「そうね。まあ、なんでも程々が一番ってことよ。ねぇ、名雪?」

 俺は放心状態でゆっくりと香里の向けた視線の先を追う。
 その先にいた名雪は、申し訳なさそうに香里に同意した。

「うん……女の子であんまりマッチョが好きな人っていないしね」

 おまえのオカンがそうだろうが……
 乾いた笑いを浮かべる名雪を見た瞬間、俺の心は……砕けた。

「あんまりだぁぁぁ!」




 終礼をサボって学校から逃げ出した俺は、すぐさまに家に戻っていた。
 そして、秋子さんに香里達に言われた事を話して、泣きついていた。
 実際本当に涙も流していた。
 それ程、香里達の言葉は辛く悲しいものだったから。

「それは残念でしたね……」

 秋子さんは泣き叫ぶ俺をやさしく撫でてくれた。
 まあ、頭ではなく……なぜか広背筋だったが。

「俺……あんなに頑張ったのに」
「若い子にはまだ、祐一さんの筋肉の良さは分からないんですね」

 今度は脊柱起立筋を撫でながら、秋子さんが寂しそうに微笑んだ。

「もうトレーニング止めます。女子に気持ち悪がられるんじゃ辛すぎます」
「そんな! ようやく触りがいのある筋肉になってきたのに!」

 触りがいって、ちょっと秋子さん……
 いやまあ、触って欲しいんですけどね。
 いつの間にやら俺の大腿筋、つまりはフトモモを撫でまわしていた秋子さんは心底悲しそうだ。
 うわっ! 本気で泣きそうだよ、この人。

「でも……俺、名雪にまでこの筋肉を否定されたんです」
「……そうなの名雪?」

 秋子さんの突然の第三者への問いに俺は思わず顔を上げる。
 そこには、今戻ってきたばかりであろう夏服姿の名雪がいた。
 そして、リビングの入り口で少し困った顔で立っている。

「お母さん……」
「名雪、正直に答えていいのよ」

 秋子さんの名雪への言葉の真意が理解できず、俺は名雪をただ見つめる。
 すると名雪は顔を真赤にして、遠慮がちに答えた。

「祐一……、香里の前ではあんなふうに答えたけど」
「え?」
「私は本当はマッチョが大好きなの! 今の祐一の筋肉……すごく素敵だと思うから!」

 そういって背を向けたと思うと、すぐさまその場から走り去る。
 名雪が二階へ駆けあがるドドドッという音を聞きながら、俺は秋子さんの満足そうな笑顔を見る。

「私の娘ですから」
「ほんとにそうっすね……」
「これからどうします?」

 もう答えを知っているであろう秋子さんの自信満々の問いに俺は、照れながらもはっきりと答えるのだった。

「これからもご指導お願いします!」
「とりあえず今日からジャム……少し増やしときますね」
「げっ」

 俺もゴリラと呼ばれる日は、そう遠くはなさそうだった。
 それでもかまわないと思った。

 ……きっと、名雪もナデナデしてくれるようになると思うから。
 



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