「香里、美味しいねー」
 そう言って名雪は美味しそうにパクパク食べる。
 賞味期限がサインペンで消された、駅前のパン屋さんのパンを。





なゆきをあいしてる







 あの子は世界一の馬鹿だと思う。あたしの世界一愛しい人。

 最初に会ったときは、やっぱり笑顔でグラウンドを整備していた。ひとりぼっちで。
「わたし、走るの好きだから」
 そう言って、汗を拭いた。
「何もあなたが一人ですることないじゃない」
「今日はみんな忙しいんだって」
 ――なるほど、そういうことか。
 よっこらせ、とあたしはグラウンドに半分だけ埋められたゴムタイヤの上に腰掛ける。
「馬鹿ねえ、そう言ってみんな逃げてるだけよ」
「そんなことないよ……。とこちゃんはピアノの教室があるって言ってたし、まりちゃんはどうしても抜けられない親戚のお手伝いがあるんだって。それからちさちゃんはどうしても抜けられないお友達の――」
「あー、わかったわかった」あたしは途中で制した。「つまり、みんな理由があるってことね」
「そうだよ」
 また彼女は子犬のような笑みを浮かべた。無邪気すぎて、アホが感染りそう。
 はあ、とひとつ溜息を吐く。
 あたしって暇なんだな。
「手伝ってあげようか?」
 暇ついでに、この子と話してみたいと思った。家にはあまり帰りたくなかったし。
「えっ。いいのー、やったー」
 はあ、もう一つ溜息を吐く。
 
 考えてみれば、あのときのあの子の笑顔にあたしは完璧にノックアウトされていた。





 あの子は本当に馬鹿。世界一の大馬鹿。
 だけど、それを言って良いのは世界であたしだけ。他の人間が言ったら許さないんだから。
「水瀬さん、今日もお願いね」
 にこにこと名前も覚えてない女子生徒が名雪に仕事を押しつけていく。
 にこにこと名雪は仕事を引き受ける。
 なんていうか、女子ってこういうところが黒いわ。
 でも名雪は、利用はされていても不思議と他人から嫌われなかった。
 ある意味、これも処世術なのかも知れない。
「あなた、絶対に変な男に掴まっちゃ駄目よ」
「どうして?」
「『ちょっとここで待ってろ』なんて頼まれたら、吹雪の中でも何時間でも待ってそうだから」
「流石にそんなことはないよ……」
 どうだか。あたしは名雪の額を指で弾いた。
 ああ、名雪のくすぐったそうな顔、癖になるわ。
 もちろんそんな事はおくびにも出さず、あたしはさも深刻そうに溜息をついてみせた。
「ま、あんたも時間にルーズだからフィフティフィフティかもね」
 そのせいで、毎日この子と一緒に登校する夢は潰えた。――多少はジャムの影響もあることを、ここでは否定しない。
 本当。信じられないようなバランスの中を彼女は生きている。
 こんなにお人好しなのに、お人好しすぎて誰も彼女を傷つけようとはしない。
 時間にルーズなのに、授業中はぐーすか寝てるのに、彼女はなんとなく一生懸命なイメージがある(事実下らないことには実に一生懸命なんだけれど)。
 教師も彼女には寛大で、いつも笑って許していた。 
 ――ここまで来ると、もう処世術なんてレベルじゃないわ。そう、これは一種のカリスマよ。
 なゆきはかりすま。
 これほど彼女と相性の悪い単語も珍しかった。
 ――じゃあ、彼女はきっと、あたしたちと生物学的に何か異なるのよ。
 名雪をじっと見る。笑顔で返されて胸キュンした。
 ああ、この天使のような愛くるしさはきっと小動物ね。だからみんな虐めないんだわ。ついでに餌を与えてはいけませんって。
 餌を与えてみた。本当に美味しそうに食べる。――駅前のパンを(だけどあたし以外はこれやるの禁止ね)。
 あたしたちは脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属サピエンス種サピエンス。
 名雪はきっとば科ヒト属サピエンス種サピエンス(だけどあたし以外はこれ考えるの禁止ね)。





   最近、自分が壊れてしまっている気がしてならない。

   本当は気付いていた。あたしはなんとなく妹とか、家族が重たくて、だから彼女に精神的に依存してるんだって。

   でもまあいいや。名雪可愛いし。





 そして、ある冬。

「今週の火曜日に一緒に映画観たよ、たしか」
「3日会わなかったら立派に久しぶりよ」
「……そうかな?」
 そうなの。
「そう言えば、さっきから気になってたんだけど……」
 多分、この人があの相沢祐一ね。
 恋のライバル出現ってやつかしら、初日から牽制しないとならないわね。――まあ、あたしの眼鏡に叶ったら二人の交際を認めてあげよう。うんうん。
 辛いことも多いけど、それはそれとして人生楽しまなくちゃ損よね。こんなに可愛い友人がいるんだから。
 誰かが言ってた、可愛さは正義だって。
 名雪の可愛さがマニフェストでグローバルスタンダードな正義となって、あまねく世界を平和に導きますように――なんてね。
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