美坂香里の熱い一日とクラスメート達
香里は不機嫌だった。何故かと言えば、この気候に原因がある。中途半端に暑く、妙に湿度が高い。でも梅雨入りしているわけでもない。つまり、蒸し暑いのが嫌いなのだ。
「どうしたんだ香里。栞と喧嘩でもしたのか?」
「いやいや相沢、あれだけ仲のいい姉妹の喧嘩なんてすぐに仲直りしてしまうからそれじゃないぞ。おそらく……、そう。ストーカーに付き纏われているんだ」
――――――付き纏ってるのはあんた達よ。
だが、香里は全く違う事も考えていた。北川にビシッと指を突きつけられると、ザッパーンとか、ドドーンとか音がしたら面白いなとか、暑苦しくてウザイとか、そんな色々な思考が頭を駆け巡っている。しかし、その思考は中断せざるを得なかった。というより、遥か彼方へと吹っ飛んでしまった。
いきなり北川が飛んだのだ。いや、宙に浮いているといったほうが正しい。
「ちょ!!えっ?北川君、何で浮いてるの?」
香里は自分の心臓が悲鳴を上げたのに気づくことすら忘れていた。教室にいるほかの生徒達も口をあんぐりとさせている。名雪は……寝ていた。
「あっ、その顔は疑ってるな?よし相沢。お前も飛んで見せてやれよ」
「いいのか?俺はコントロールが下手だぞ」
「暴走したら斉藤でも蹴っ飛ばしてとまればいいさ」
「いいなそれ」
「よくない」
即答で拒否する斉藤。誰だって理不尽な理由で暴力を振るわれるのは嫌なものである。
チキ
香里はカッターを持ち、机の上に登って北川の頭上の空間を切りつけた。…切れた。何が切れたって切りつけたはずのカッターの刃の方がだ。
「危ないぞ美坂。種も仕掛けもなく飛んでるわけじゃないからな」
「危ないぞじゃないわーーー!!腕失くすところだったでしょー!」
香里の放った右ストレートは、正確に北川の顔面を捉えた。ワイヤーで宙吊り状態となっている彼の身体は、まるでサンドバックのようだ。旧約聖書に出てくるカインとアベルの物語によると、兄のカインは嫉妬にかられて弟のアベルを殴り殺した。俗説によると、それは右ストレートだと言われている。勿論、目の前にいる北川が死んだわけではないが、彼女の放った拳によって気絶してしまったようだ。
「あっ…」
さすがにやりすぎたと思ったのだろう。香里は口元に両手を持っていって、しまったと思った。
「香里、確かに俺たちにも非があったことは認めよう。だがな、この北川はある計画を発表してお前を元気付けようと思ってたんだぞ」
ちなみに全員参加な、と付け加えて言うと、祐一は北川を起こした。
「ほら、起きろ」
祐一は心なしか陥没している北川の頬を引っ叩いた。数秒経って、意識が覚醒したのか「いてぇ」と顔をさすりながら北川は身を起こした。
「美坂、これは男子にとっても女子にとっても辛い選択かもしれないし、良いイベントなのかもしれない。そんな企画だが、通してくれるか?」
ちなみに、この時間はLHRで担任の石橋は出張の為、この場にはいない。それプラス、このLHR、時間割移動によって5限に移動され、6限は石橋担当の授業である。帰りのSHRだけは代理の教師が来ることになっているが、あとは自由というかなりおいしい状態だ。
彼らは受験生で、いわゆる難関私大理系のクラスに所属していて、普段はとても一生懸命に勉学に励んでいる。だが、それが彼らにとってのストレスにもなっている。だから、形はどうであれ、祐一と北川の奇行は、彼らにとっては良いストレスの発散を促しているのだ。
北川は赤く腫れ上がってきた頬から手を外し、教壇の前に立った。その間に、祐一は黒板に何やら文字を書き始めた。
「これより、クラス対抗腕相撲大会を始めたいと思う。もちろん全員強制参加だ。俺嫌だ?私無理?いいか!!俺たちは受験生で、ここにいる奴らはそこそこ以上に頭のいいやつが多いだろう。だが、体力がなければ受験は乗り切れないぞ!!受験戦争なんて言葉があるくらいだしな。それに、秋に待つ体育祭、文化祭、俺は二冠を狙うつもりだ。そのためにはクラスの団結力を上げる事が不可欠だ。最も、そんな事よりももっと大事な事がある。クラス全体で何かをするという、数少ない機会の一つを大事にしたい。想い出にこんなことあったなって残したいじゃねーか」
受験戦争という言葉の意味を若干取り違えてはいたが、皆北川の言葉に納得した。もう卒業まで一年もないのだ。そんな自分達がクラスメート全員と触れ合えるチャンスなのだ。
一区切りつくと、北川は横に立っている祐一にタッチして、演説を交代した。
「要は遊ぶ時には目一杯遊べって事だ!!おまえら、『熱く!楽しく!笑え!』だ。今日から卒業まで俺と北川は、お前らに」
「笑える」
「日常の」
「充実を」
「「教えてやる!!」」
ラストは綺麗にハモった。といっても、2人は演説の内容など全く考えてはいなかった。だが、気が付いてみれば、こんな時間はいつも寝ている名雪ですら、彼らの話に耳を傾けている。
「やるなぁあいつら」
斉藤が感心した声で呟いたのが、香里の耳に届いた。
「どういう事?」
「だってさ、文科系のやつも体育会系のやつらも先導してるんだぜ。しかもほら、普段話さないのや仲の悪いやつらも満更じゃなく盛り上がってる。現代のカリスマみたいなやつらだよ」
――――――確かに。
祐一たちのテンションは、常に誰かを巻き込んでいる。気が付けば、香里と斉藤を除く生徒全員のテンションは上がっていた。
「あの内気な君塚さんや名雪まで…」
香里がぼやいてる間に北川が彼女の元に、祐一は斉藤の前へと歩み寄る。そして二人は同時に話し掛けた。
「「美坂(斉藤)もな」」
シンプルな一言だったが、香里と斉藤を盛り立てるのには十分以上の言葉だった。香里自身は気付いていないが、いつの間にやら暑さが熱さに変わっていて、その感じが不快には思えていない。むしろそれが楽しくなりそうな期待のほうが強くなっていた。
「ルールは簡単だ。男女別トーナメント方式で行う。それでまずは、男女の一位を決める。だがそれで終わりじゃない。男子は八位までランキングつけるからな。そして、男子一位と女子一位で対戦してもらう。あ、女子一位は両手使用でな。男子、これで勝つと女子一回戦敗退した女の子の中の1人とキス・・できる権利を与えてやる。女子、男子にキスされたくなかったら必死にやれよ」
ブーブーと文句を言うのは女子、翻って雄叫びをあげながらやる気を出しているのは男子だ。北川はそこで祐一にマイク(教科書を丸めただけ)を手渡し、交代した。
「甘いぞ女子!!もし女子の一位に男子の八位が敗れた時はもっと悲惨だ!!男子が1人二千円女子の一位に支払うんだぞ!!」
この言葉に男子はヤバイと思った。負けたら二千円、これは半月分の昼食に値する。
――――――負けられない!!
クラス全体が一つにまとまった。ただし、皆己の都合でだが。
「それじゃあ盛り上がって行くぞー!!第一回戦第一試合女子、君塚優対水瀬名雪!!」
「前に出てきてくれ」
北川がこっちに来いと手招きする。その指示で、2人は教壇の前に作られたステージという名の戦場に赴いた。
「一生懸命やります。キスは嫌ですから」
君塚は名雪には勝てないと考えている。相手は陸上部、対する自分は貧弱。だが、頑張ればどうにかなると思い、やってみると決めた。ちなみに、一番貧弱で内気な君塚が試合をすると決心した事により、他の生徒が対抗してやる気になったのは、もはや言うまでもないことだ。
「望む所だよ」
「それじゃあいくぜ」
「レディー」
「「ファイッ!!」」
祐一と北川の叫び声で試合が始まった。
「斉藤負けろよー!」
「美坂さん、絶対勝ってねー」
「北川、負けたらぶっ殺すぞー!!」
「俺たちの生活費がかかってるんだからな!!」
「北川君、あなたじゃ私には勝てないわ」
「やってみなきゃわかんないぜ。行くぞ、美坂!!」
結果は男子は斉藤が一位、女子は香里となった。斉藤は香里に勝利し、香里は八位の北川に勝ったので、双方御褒美はついている。
「じゃあまずは男子から。斉藤、誰を選ぶ?」
候補としては、君塚優と、バレー部の沢下優音の2人である。君塚は眼鏡の下に隠れた可愛らしさが売り(本人は自覚がない)で、沢下はボーイッシュだがスタイルがよく、そのアンバランスさが人気である。沢下は本当ならベスト4には残れるような強さだったのだが、初戦で香里と当たったのが不運だった。
――――――君塚さんって肌綺麗だな。よし、決まりっと。
「んじゃ君塚さん。いいかな」
「わっわたしですか?沢下さんや伊藤さんの方が…」
「は〜い決定ー。君塚さんも拒否権はないからね」
北川が君塚の言葉を遮り、二人の肩に手を置いて近づけさせた。祐一の方は香里と名雪と雑談している。どうやらこの件に関してはタッチしないようだ。
「うーん。俺じゃ嫌かい?」
「えっとそういう訳じゃ…」
斉藤はスポーツ系で、君塚はそういったタイプと接する機会はほとんどなかった。それがいきなりキスである。もう彼女の頭はパニックであった。
――――――うー。こんなの恥ずかしい。…でもなんか斉藤君って。
君塚は斉藤の態度に今になって気付いた。彼女が落ち着くように180cmもある身長を150cmの彼女と同じ高さの目線で、やさしい表情で見つめていた。
――――――まぁ、無理強いする事でもないしな。いざとなったら俺が脱走すればいいだけだし。
そんな斉藤の考えとは逆の回答を君塚は出した。
「えっと、責任とって付き合ってくれますか?」
「「「「ウォォーーーー(キャーーーー)」」」」
クラス中がビックリした。もっとビックリしているのは斉藤だが。
結果二人は結ばれる事となり、教室での接吻も大人のキスをして、見てる生徒を驚かせたらしい。
「さて、次は女子の方なんだが、その前に美坂香里嬢から重大な発表がある。どうぞ」
祐一がそう言うと、香里はコホンと一つ咳払いをしてから話を始めた。
「ねぇ、女の子達も500円づつ出資してもらえないかしら。目的はこの後、カラオケルームの貸切予約を入れたから。当日予約があったのはラッキーだったのよ…。どう?みんな」
「部活あるぞー」
「私バイトが…」
「一日くらい部活サボったって大丈夫よ。それとバイトって5時から6時位に始まるんでしょ?なら平気よ。二時間予約だから。5時組や遠い人は遅刻はするでしょうけど」
まだ渋っている生徒達を見かねた祐一と北川が真っ先に動いた。
「祭りはまだ終わらせないぞ!!」
2人の笑顔は、とても魅力的だった。その顔と彼らの言葉に、行こうとしない生徒達も行く気になってしまった。既に祐一たちの虜となってしまっている自分達に気が付かないまま、だ。
「それじゃあ楽しく行こーぜ!!」
………
「まさかこんな事考えてるなんてね」
カラオケが終わり、北川と香里は名雪と祐一に夕食へ誘われ、水瀬家に向かっていた。
「うん。びっくりしたよ〜」
「実は大半は相沢が考案してたんだ。俺という事になってるがな」
「まぁな。発案者は俺さ。君塚さんと斉藤に関しては予想外だったけど」
「まさかあんな大胆な事言ってディープキスだもんな」
「あつあつだったよ〜」
「あのさ、俺って一応転校生でお前ら以外まともに喋るやつが居なかったじゃん。まぁ名雪は彼女で従兄妹だから除くとして、あと斉藤くらいだもんな、友人って。だから他のやつらとも仲良くなっておきたかったんだよ。卒業まで一年を切ったしな」
――――――なるほど。何となくわかるわ。短くても長い高校生活だものね。
香里はようやく今日の二人の奇行の理由を理解した。確かに自分を元気付けるのが理由というのも入っているが、あくまで祐一は自分の為に行ったという事だ。女子一位が男子八位に勝たなかった場合、クラス全員から1000円づつ徴収してカラオケに行く計画を立てていたらしい。カラオケにしたのは、店が学校から一番近かったのが一番の理由らしい。
――――――それでも他人を気にしてくれるところが2人らしいけど。
相沢祐一と北川潤というのは、そういう人間なのだ。一見、変わり者で奇行に走っているが、その実、他者の心や思いやりといった気持ちは強く、熱い。
――――――中途半端な『暑さ』も『熱さ』に変われば結構気持ちがいいのね。たまにで結構だけど…。
涼しくなってきた赤い夕焼けと風を背に、三人から少し離れてしまった香里は、小走りで彼らを追いかけた。
感想
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