"ねえ、おままごとしようよ"
"ふたりしかいないのに、できるわけないだろ"
"おかあさんと、おとうさんで、ふたりだよ"
"こどもはだれがやるんだ"
"そんなのいないよ。だからふたりでもできるよ"
"けっこんしてるのに、いないわけないだろ"
"ずっとふたりでいるから、いらない"


『今度、ついにおめでたなんですって』
『ほんと? お祝いしなくちゃ』
『何がいいかしら』
『そっちが忙しい時に限り、わたしがいつでもめんどう看てあげます券100枚』


"じゃあ、おとうさんがいなくなったら、わたしあかちゃんうむ"
"いなくなったら、いっしょにいれないから、けっこんしたことにならないじゃないか。あかちゃんはけっこんしないとうまれないんだぞ。それでもおまえは、おとうさんとはなればなれになってまで、あかちゃんうみたいのか?"


『便りがないのは良い知らせって言うけど。ほんと、便りがあっても良い知らせばかりね』
『……上手くやってるから、心配しなくていいよっ。毎朝出る時郵便受けに近況入れておこうか?』
『あらあら、先に返されちゃったみたい』


"やだ、けど……でも、わたしずっとおとうさんいないんだよ。だから……おかあさんにはずっとわたしがいるもんっ"
"……"
"おとうさんいなくて、さみしいの、わたししってるから。ひとりぼっちがつらいの、しってるから……わたし、おかあさんと、ずっとふたりでいるもんっ!"


『もうすぐ、いい知らせ、出来ると思うから』
『ホントに?』
『今までお知らせしてこなかったから、その分、いい知らせが出来るんだよ』
『期待してるわね』
『……いっぱい喜んでもらいたいから、待望は程々にお願いするね』




"……いやだよ……はなれるのいやだよ……いやだよ……"

"だれと、だよ……"




『わたし、やっぱり強くはなれないよ……だから……ずっと支えにしても、いいかな……?』



 ずっと言いたかった、言えなかった、言葉。
 


『何が "大切な人を無くした彼女をなぐさめてあげたい" だよ……お母さんが……あんなことになっちゃった時の言葉……忘れちゃったの!? お母さんは無事だったからお前には頼れる人がいるとか、なんの言い訳にもなってないよっ!!』



 結局、別れちゃったときの、言葉。
 告白した時の言葉より鮮明なのは、どうしてだろう。

 一緒に居て幸せだったのはたったの半年だった。密度も期間もない、すかすかの半年。
 


 あれから何年経ったんだろう。
 生まれて以来、何よりも必死だった言葉。一体誰のための言葉だったっけ。絶対忘れてやるもんかって思ってた。


 時間って、本当不思議だね。
 どんな偉い学者さんが束になった所で、わかりっこないはずだよ――



 



I-tsuwari gokko









 周りを見ると、とうに鳴り終わった目覚ましが、ひとりぼっちでコチコチと秒針をかき鳴らしていた。
 窓は開け放っていたはずなのに、ベッド周りに漂うのは、昨日の晩から居候して離れない淀んだ空気。
 寝起きの悪い休日の朝って、どうしてこんなにも気分が重いのだろう。渋滞のせいで楽しいはずの旅行が台無し、言うならそんな感じに似てる。
 ――旅行に行けるような、ロクな約束入れてないのもその原因のひとつなんだろうけど。

 六月のカレンダーを一瞥し、窓を閉め、除湿機兼エアコンをかけて、鍵なんか閉めずに部屋を後にする。


 洗面所に向かう途中、朝食を暖めてるお母さんと目が合った。

「おはよう。遅かったわね」
「早起きしたならともかく、口に出して言うセリフじゃないよ……」

 洗面所の鏡の前で休日なりの身なりを整え、わたしはパジャマ姿のままリビングへと戻る。
 ほかほか湯気を立てるご飯で、乱れに乱れたわたしの体内時計は正しい時間を刻み始めた。

 ふと、横目に入る、リビングの机の上に置かれたわたしのバッグ。
 昨夜、同僚とぐでんぐでんになるまで飲み明かしたわたしを、今朝になるまで介抱してくれてたあの人のことを思い出す。

「目覚まし、鳴ってたけど」
「知ってるよ……」
「起こさなくてよかった?」
「むしろあれは眠りの合図だったよ……」

 味噌汁をすすりながら、わたしはゆっくりと昨日の記憶を呼び起こしてみる。

「目覚ましからはあと一つで卒業なのにね。今度は、誰かに朝までついててもらわなくちゃいけないの?」
 その言葉が、あたまの中のどこかにちいさな雷を落とす。

「……ごめん」

 お母さんは何も答えないまま、いつもより大目のご飯を箸に乗せて、頬張る。
 わたしも、同じように、頬張る。なんで謝ったかもよく解らないまま。

 そのことについての言い訳は出来たけど、止めておいた。
 大切な人と朝帰りして。ヘンな言い訳しても勘ぐられちゃうだけだし。そう言うことにはお母さん特に敏感だし。

 "そう言う事出来る状態じゃない"って、いい機会だし、言っちゃえばいいのにとも思った。
 だけどその前に、あの人に一言くらい相談するべきだとも、思った。

 ――今日、会えたら、言おう。
 
 バッグに手を伸ばし、携帯が乾いた音を立てる。
 お手紙のマークがない事を確かめて、パジャマの胸ポケットにしまいこんだ後、急いでわたしは箸を進めた。

「ごちそうさま」
 そう言い終えた時、すでにおはようのご挨拶とは程遠い時間になっていた。



>[メール]>[受信問い合わせ……新着なし]>[メール作成]


[昨日はホントありがとう^^ 今までおやすみ中だったけど、今日はこれからもたぶんおやすみ予定(>_<)……にしちゃまずいかな。やっぱり^^;]


>[保存]>[送信]


 部屋のベッドの上で、うつぶせのまま携帯を操作する。
 最近晴れて携帯デビューとなったわたし。最初はあまり欲しくなかったけど、絶対に解けるゲームをやっている感覚で、持ってみたら案外楽しくなってしまった。
 社会人として持ってないのも、今となったらどうかと思うし。

 かえるのストラップを持って、手でいろいろ遊んでみる。
 彼からの返信はしばらくないな、と自分の中で納得がいく時間まで。

 電池残り二本が一日続いた携帯を充電器に差して、わたしはパジャマを脱いだ。
 ……タイミングを合わせたかのように、ぶるぶる震え出す携帯。
 結局下着のまま、わたしは携帯に手を伸ばした。


>[メール]>[受信BOX]

[久し振り。携帯買ったんだって? 何か信じられないけど(笑)よろしく〜]

 件名のところにあるのは、見知った名前。最近お母さんとの会話で、いつも話題の中心にいる人気者。
 わたしより早く、たぶんわたしと同じ理由で、携帯を持った人。
 きっと、このメールを打つのも、やたらと長いわたしのメールアドレスを打つのも、お手軽感覚だったのだろう。


>[電話帳]>[追加]>[メール作成]

[相変わらず耳が早いね^^; 誰に聞いたの? 当たり前のようにお母さんのメールアドレスとかも知ってそうだよね……]
 
>[送信]


 充電器に携帯を戻し、着替えを続けた。3分ほどインターバルを置いて、ランプのついた携帯がぶるぶる震える。
 スカート腰にぶら下げた半端な格好で、わたしは携帯を手に取った。


>[メール]>[受信BOX]

[そのお母さんに決まってるだろっ。たまにメールしてんだけど、お前の話とかしたりするぞ(笑)まあなんだかんだで堅いお話が中心になっちゃうけど。その分お前と軽い話とか出来ると嬉しいみたいな]

>[返信]

[そうなんだ^^; わたしが軽い話しか出来ないように聞こえるのが引っかかるけど……またひまな時とかメールしようねー]

>[送信]>[マナー解除]


 この前、お母さんから聞いた事。忘れた訳じゃない。

『今度、ついにおめでたなんですって』

 そのお祝いをナイショで探してる事どころか、わたしは"おめでとう"の言葉すら、メール本文には書けなかった。
 自分の口で直接伝えたいってのもある。だけどそれは本当の理由じゃない。

 わたし達の事、棚にあげておいて。それでいておめでとうを言うのは、なんだか気が引けたから。


 着替え終えたわたしは、不快指数の削減に成功した自室にて、バッグから書類を取り出し机の上へと並べる。
 休日にちょくちょく仕事を片しといて、会社でぱぱっと仕上げちゃう。わたしと同じ就職した友達からの受け売りだけど、予定のない休日は大抵これで過ごしていた。
 書類の束をばらすと同時、机上に常備されたお仕事道具のノートパソコンを開く。会社で慣れたリズムの無い風がわたしの髪を揺らした。
 ブックエンドの間に立てかけられた教科書が、アプリケーションの使い方の冊子に変わってる点を除けば、昔テスト勉強してた時と環境は同じ。
 あの時よりは、少しだけ目の前のことに集中出来るようになった気がする。……睡眠時間も、ちょっとは減らせた気がする。

 結局、デスクワークが一区切りつくまで、着信音が響く事はなかった。






 ―――――





 休日を少し長く感じちゃう時。なぜか、何をしてても疲れる。
 大好きだったはずの睡眠を、一日中貪った時でさえ。

 夕方、リビングのソファーで膝を抱え、ざぶとんを重ねていく番組をお母さんと二人で見ていた。

>[受信問い合わせ……新着なし]

「夕食の準備、しなくていいの?」
「もうとっくに作ってあるわよ」
「冷もの?」

 お母さんは小さく頷いて、テレビに目線を戻した。
 携帯をポケットにしまうついで、乱れたロングスカートを正して、わたしは冷蔵庫へと向かう。

「お話、しない?」
 そさくさと夕食の用意を始めたわたしを呼び止めるお母さんの声。
「珍しく右端の人がお休みしてること?」
「違うわよ。あなたのことで」

「わたしのこと、って言うより。……たぶんあの人のことだよね」 
 そうよ、って答えるかわり、お母さんはニコッと微笑んだのだと思う。
 色々と思う所もあり、観念したわたしは、再びソファーへ腰を降ろした。

 リモコンで小さくなっていくテレビの音が、前座となる。
 ……こんなに改まれたら、大事な話をしないって方がおかしいよね。

 必死に隠し通そうとしてた自分が、今更滑稽に思えてきた。
 常日頃、お母さんと生活を共にして。……何も知らない訳、無かったのに。
 

「いつ、籍は入れるの?」

「……いきなりだね」
 大体言われる事は解っていたけど、わたしは敢えて意外そうな素振りを見せた。
「それくらい、大事なことのはずよ」


 ずっと、何を言ったらいいのか、考えてた質問だった。

 子供でいたい、そんな甘えた気持ち。いい加減何でも出来る大人なんだって、奢り高ぶった気持ち。相反してずっとわたしの心のなかに渦巻いてる。
 家に居るから、子供とかそう言う気持ち、消せないのだと思う。
 生活費きちんと入れて、衣食関係を依存せず過ごしてると、不思議と親に甘えてる気持ちにならないんだ。

 ……そんな自分が、他人だった人と籍を入れる。その意味の大きさ。ついて回る責任の大きさ。

「もう、それなりの歳なんだから。自分自身で解ってるつもりだよ。言うべき事も、それを言うべき時も。こんな風に促されなくても言うつもりだった。もう全部決めてあるんだ。わたし達ふたりで」
 考え抜いて、中途半端な心が少し背伸びして吐きだしたセリフが、これだった。

「責任を取る覚悟の上で、私に黙ってたってこと?」
「……そうだよ」
「こうやって私からあなたにお話をさせようとしている時点で、私にはそう思えないってこと、解るでしょう?」

 お母さんの顔を覗き見た。
 だけど、わたしはすぐにその目線を逸らしてしまう。
 
「昨日の事、他にも小さな理由はあるけど、私はあなたから話してくれるのを待てなかった。あなた達の考えに反対するつもりはないわ。こんなことが続かないと約束してくれるなら」

 ――そのまま、口をつぐんでしまった。
 真剣な眼差しで、ずっとこちらを見ているお母さんの顔が、怖くて。

「まだまだ先の事って言っても、何が起こるか解らない。あなた達の気持ちも解らなくはないけど、もう少し冷静に考えなさい。あなたが今背負っている何よりも重い責任の事」

 これから言われるだろうこと、たぶん全部予測ついてる。予測のつく事で怒られてる。そんな自分が腹立たしくて。

「お付き合いが気になるなら、同僚の人達にもきちんと理由を話して。あの人にも我慢して貰って。あまり薦めたくはないけれど、お互いを確かめ合う方法は、一番大切なそれ以外にもたくさんあるはずよ」

 それでも、自分のことを認めてくれないのが、辛くて――


 お母さんがテレビを消さなかったおかげだった。
 たぶん、何も音がなかったら、この空気に耐えられなかったかも知れない。

「いつもと違って、すっぱい物だけじゃなく何でも食べられたし。そのせいでいい気になって、お酒とか我慢できなかったのは全部わたしのせい。だけど彼は昨日の夜本当に何もしてない。もうお互い全部解ってるんだ。ちゃんと言わなくても、その……一緒に寝ることはもちろん、他のことも我慢してくれる人なんだ。だから……あの人のこと、悪く思わないで欲しいよ」

「なら、今朝、きちんとそう言って欲しかった。でなきゃ、私、心配しちゃうでしょ? せっかくの休日をフイにしても、拭いきれないくらい……心配しちゃうでしょう? 小さな頃にやってたおままごとじゃないの、それだけは解っておきなさい」 


 全ての責任はわたしが取ると言った手前、自分でも驚くほど、素直に頭を下げる事が出来た。
 『謝るのは私にじゃない』って、また、怒られてしまったのだけど。


 僅かな沈黙を誤魔化すように、わたしは携帯を開いた。

>[受信問い合わせ……]

 『お腹の赤ちゃんと未来のお父さんにでしょ』ってお母さんの言葉と、ボタンのプッシュ音が聞こえた。


「……ぜんぶ、近いうちに話そうと思ってた。だけど、必要なかったみたい」
「それが、あなたの言ってた"いい知らせ"?」


「うん……わたし、赤ちゃんが出来たんだ。お母さん、向こうの父母さんに二人できちんと挨拶を済ませ次第、籍も入れるつもりだよ」



 言葉をつまらせることなく、わたしの口はそう告げた。


 
>[新着なし]




 お祝いのメロディーは、鳴らなかった。





「本当に、おめでとう」


 喜びの言葉をかけられたわたしは、何も表情を作る事が出来ず、ぼんやりとお母さんを見つめる。


「どうして……」

 さっきの態度から一変したお母さんが、不思議で仕方なかったから。
 半ばやけになってた自分を、平手打ちとかで目を覚ましてもらえるかなって、そんな風に思ってたくらいだから。

 ありがとうって言葉が、素直に言えない。

「お母さんになるのが嬉しくて、おばあちゃんになるのが、嬉しくないわけないでしょ?」
 その言葉は、乾いたティッシュがぐんぐん水を吸うようにして、わたしの心の奥底に染み込んでいく。なのに――

「あなたが選んだ人が、信じられる人で良かった。親としての最後のワガママを言わずに済んで、本当に良かった」

 なのに何故か今、こんなにも心地が悪い。
 まるで、生まれた時から、光で照らされるたびずっとわたしのことを見てきた影が――ぴったりとわたしの背中に張り付いたようだった。

 晴れて、あの人とわたし、お互いに幸せになれたんだと。そうお母さんに認めてもらえたのに。
 ひとつの大きなステップを越えない限り、決して立つことの出来ない幸せの境地に、ようやくたどり着くことが出来たというのに。


「浮かない顔をしてるのは、どうして?」

 小さな声で、わたしに向けられた質問には、答えられなかった。
 おめでとうを言われて気持ちが悪いなんて、口が裂けても言いたくなかったから。  

「大好きだった人を、幸せにしてあげられなかった。その割自分は新しい人を見つけて、その人を幸せにしようとしてる。昔の自分が今の自分を見たらどう思うかって。そんな"何もかも"の幸せを望んでいるから、迷いが出てしまうの?」

 そんなことないよっ!……って、言えたらいいのに。
 意固地になった口はぴくりとも動こうとしない。

「自分の幸せですら得ることは難しいのに。他人全てを幸せになんか出来るわけがない。"みんなをしあわせにしてるつもり"になることは簡単だけど」

 口は閉じる事が出来るけど、耳は閉じる事が出来ない。
 だからこそ、何もやる気がおきなくても、開いたままの耳に飛び込んでくる誰かの言葉を聞くだけで、動くきっかけを作る事が出来る。

「皆誰かを幸せに出来るはずなんだから、一人で背負い込むことはないの。あなたに大切な人がいるように、あなたの昔好きだった人にも大切な人がいる……それに、昔好きだった人を支えているのは、あなたにとっていちばん信頼のおける子じゃない。それが解ってるからこそ、あなたと今まで通りの付き合いをしてくれてるんだと思う。それとも変に気まずくされた方がいい?」

 わたしはぶんぶんと首を振った。
 そうだよね。悔しいって思わなかったら嘘になるけど。その気持ちがあったからこそ、わたしも幸せをつかめたんだもんね。

「私もね、何も感情が湧かなかったって言えば嘘になるの。もちろんそれは醜い感情。……何よりも大事な娘だものね。だけどきちんとお話をしてみて、私も色々と考えたの。今あなたに伝えた言葉の半分は、あなたの大好きだった人の言葉なのよ」

 右の耳も、左の耳も、お母さんの顔すら見られない意気地なしの目に代わって、一生懸命にお母さんの言葉を聴いてる。

「全部言い訳にしか聞こえないって、そう思われても仕方無いですよねって、彼は笑ってた。でもね、彼がそう決断した理由を聞かされたら、私は何も返せなかった。辛すぎるだろうからあなたには話してないって言ってたわ」

 訊きたいよ。例え何を犠牲にしてでも。
 ――昔のわたしだったらね。

「自分たちが、今より、ずっと大人になれたとしたら、その時はあなたにも話していいって言われてる。私も今のあなたなら受け止められると思ってる。聞きたい?」

 一日中ぬいぐるみを抱いて泣いてたあの頃のわたしだったら。

「きっかけはどうでも、今のわたしは……幸せだと思うから。昔の辛い事まで掘り返すつもりはないよ。だから……理由なんか知らなくても、わたしは大丈夫」

 台頭する両耳に勇気付けられ、ひとりぼっちの口から自然とこぼれた言葉だった。
 肩肘張ってない、素直なわたしの言葉だと思う。
 長い時間がわたしをそうさせたってことは、残酷なことなんだろうか。それとも、成長したねって頭を撫でられるべきことなんだろうか。

 ソファーが軽く軋む音。肩の触れ合う距離にまで近付いてきてくれたお母さんの両手が、うつむくわたしの両手を優しく包んでくれる。

「きっかけはどうあれ、あなたも、少し時間はかかってしまったけどあなたが好きだった人もこうして幸せを形に出来た。私もそれで十分だと思うわ。――今はまだ見えないお腹の中だけど、産まれる時に耐えた痛みの分だけ、子供は幸せになるのよ」

「だったら、いたくなかったら、幸せになってくれないの……?」
 隣に居るお母さんに顔をやり、ちいさく反論する。
 
「安産であることに越したことはないわ。だったら、無事にお産を終えた幸せを子供に分けてあげればいいだけのこと。もちろん幸せだけじゃなくて、あなた達の知ってること何もかも」
「解ってる。わたしが持ってるものなら、何をあげてもいいって――そう思ってるから」

 目線を、少しだけ大きくなった気のするお腹に向け、くりくりと撫でてみる。
 陸上で汗水垂らしてたあの頃にくらべると、随分ふにふに柔らかくなっちゃったみたい。
 
「違うわ。幸せをあげるんじゃなくて分け合うの。もしあなた達の幸せを全部あげてしまったら、私や私のお母さん、私のお父さん、そして――あなたのお父さんの幸せも、全部無くなってしまうことになるのよ。だから、子供とあなた、未来のお父さん……どちらも幸せになりなさい」

 お口と両耳に続いて、ようやくわたしの瞳も重いまぶたをあげた。
 過去の自分に感じていた後ろめたさを、全て洗い流すように、止まる事なく溢れ出す涙。


「えぐ……あ……ふ……ええ……っ」 

 抱きかかえられた身体を、そのまま、お母さんに預けた。
 いろんな意味で抱かれるのは慣れちゃったけど、お母さんの胸には、母親でしか創りだすことの出来ない、心地よさのようなものがあった。

「……今みたいに勝手ばかり言う私をあなたはどう思っているか、正直解らない。だけどね、親と子供……嫌いとか好きとか、言葉で表すことなんか出来ないって。あなたもお母さんになれば解ると思うわ。婚姻届の上でだけじゃなく、本当の意味でのお母さんになった時にね」

 そのまま、ずっと、抱き合ってた。
 涙が枯れるまでずっと――のつもりだったけど、途中わたしの携帯が、着信音の中で、一番大好きな音楽を鳴らしたんだ。


 ゆっくりと手を解いてくれるお母さんに、わたしはひとりの女性として、深々と頭を下げた。
 その耳に右手をあてがって、お母さんは、そっと言葉を呟いてくれる。

 とても偶然だとは思えないその内容を理解するのは、もう少しだけ、気持ちを整理する必要がありそうだった。

 わたしの右手で音楽をかき鳴らす携帯を手に、階段を駆け上り、自分の部屋へ飛び込んだ。
 だけど、すぐには出れず、しばらく飛び込んだベッドで考え込んでた。

 それは、さっきの幸せのこと。すぐ頭に浮かんだのは、いつまでもお母さんが再婚しない理由。
 ずっとわたしはこう思ってた。わたしがいることでお母さんは助かってるんだって。わたしの存在が全てだったんだって。

 自分勝手に勘違いしてただけなんだ。わがままにもほどがあるよね。
 心が偽りっこしてたんだ。そんなこんなの理由でお母さんにはわたしが必要だからって。いつまでもお母さんの元を離れられないから仕方がないんだよって。だから、別れた事は、良い事だったんだよって――

 彼と一緒になりたい気持ちは本当。だけど、ずっと一緒だったお母さんに、わたしの存在は大きいものだったって認めて欲しかったのも――本当。
 何の反対もなく、そのまま送り出してくれることが悔しかったんだと思う。だから、おめでとうの言葉を、素直に受け入れられなかった。


 そんなやきもち焼かなくたって、お母さんとお父さん、そしてわたし。今までずっとずっと一緒だったんだ。ひとりぼっちなんかじゃなかったんだ。
 子供のときは、目に見えなかったものだけど。大人になって初めて形のわかる"シアワセ"で、ずっとずっと繋がってたんだ。



 今なら、言えるよね? わたし。
 ずっと一緒に歩きたかったひとに。

 "いままでありがとう"を、言いたいんじゃなくて。
 一緒に "いままでありがとう" を、言いたかったひとに。

 頬につけた、わたしの赤い手のひら。いっぱい時間かけて編んだ服。アルバムに残ったふたりのピース。たぶん今になっては辛い事ばかりだけど、忘れないでいてほしい。

 時々でいいから、思い出の中を覗いてみて欲しい。
 "辛"い思い出にひとつのメスを入れなければ、その中身に触れなければ、決して"幸"せにはなれないんだ。

 わたしも、ずっとずっとあの目覚ましから。あなたが昔のわたしと声で結んでくれた小指から……卒業する気、ないよ。
 
 ふたりの幸せは違う幸せだけど、たくさんの思い出を触媒にして、きっとどこかで繋がってるはずなんだ。
 そのためには、お互いが、めいっぱい幸せにならなくちゃいけないんだ。

 ……幸せを、絶やさないように。
 

 だから、言えるよね?
 こどものころからずっと想ってたひとに。

 大好きだった男の子。
 それと同じくらい、わたしも大好きだった女の子に。



 言える、よね?




 今、そばでずっと鳴りつづけてる、携帯の向こう側に居る人と――わたしは幸せになりますって。










>[受信(クラシックメロディ3)]>[通話]



[今日ホントごめん、携帯イジってたら間違いなく首飛んでた]

 聞けば、どんな時でも、安堵出来るその声。
 しばらくは、他愛のないはなし。

[びっくりさせられるのはわたし達のほうだと思うよ? 今日凄いこと聞いちゃったから]


 お母さんに言っちゃった事、案外彼に動揺はないみたいだった。言わなくちゃいけないことだって、覚悟は決めてくれていたらしい。
 今度お家で会うときには、久し振りにあの人のスーツ姿が見られるよ。


[あっちの方も、わたしたちと同じ日に……予定日なんだって]
[……マジですかい。シバイみたいじゃん。裏に台本が隠されてる訳でもないのに]



 奇跡みたいな……ふしぎな出来事だよね。
 わたし達にとっても、誰にとっても。



[ほんとだよね。……ほんと、ごっこ遊びでもないのにね……]
[へ?]






[何でもないよ。しあわせになろうね、世界中の、誰よりも]







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