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 彼は、あの子のことを知っていた。
転校したてで行動範囲が狭い彼が、もっと行動範囲の狭いあの子と知り合えるなんて奇跡だと思う。

あの子は彼に、全てを打ち明けていた。
学校に来ていないわけ。病気のこと。そして姉のこと。

あの子は、彼を慕っていた。
でも、あの子が彼を愛していたかどうかは、誰にも分からない。


あの子は、もう死んでしまったから。




 暗い、無機質な部屋にノックの音が響いた。
もう何日も手をかけられていないドアノブ。
自分でもよく保っていると思う。数日間、飲みも食べもせず、ただひたすら暗闇に身を置く。
別に籠城しているわけでも、誰かと喧嘩しているわけもない。

あの子が死んだ。その事実を自分に受け入れさせるため。
そして何もしてやれなかった、妹と呼べない姉を恥じるため。

「……はい?」

自分の声ではないモノが、自分の口から聞こえる。
違和感を感じる前にドアの向こうに神経が集中していた。なんだか様子が違う。

「香里、お友達よ」

お母さんの声。似たようなやりとりが、ここ何日かでずっと続いている。
たぶんあの子かあたしのクラスメートなんだろうけど、彼女たちに話す気はない。
話したって、何が分かるというの?
あの子のつらさが、あたしの罪が、そして彼の痛みが。
上辺だけすくい取って理解するつもりなの?

だって、今あたしが背負っているものは、あたしへの罰なんだから。

「おぅ、俺だ」

潰れてしまった彼の声は、なんだかあたしと同じ音がする。
彼の声をちゃんと聞くのは―――――雪降る夜の学校で、泣きついた時以来かもしれない。
そんな気恥ずかしさより先に、あたしの心が声を出していた。

「入って」



「随分と辛気くさいなぁ、女の子の部屋とは思えないぞ」

意外と普段通りの彼の声には、なんとなく押し殺したものが見え隠れした。
ドアから光が漏れて、お母さんは遠慮したのだろうか、またドアを閉める。
階段を下りていく音と重なる彼の声に、また自分と同じ音を感じた。

「カーテンぐらい開けろ……ってもう夜か」

それでも構わずカーテンを開ける相沢君。
街頭と星空の頼りない明かりが彼の横顔を照らす。


「なにしにきたの」
「そうだな、強いて言うなら……傷を舐めあいに、かな」

カラカラカラッとかわいた音を立てて窓が開けられる。容赦なく入り込む冷たい風。
寒いなんていうあたしの無言の抗議を無視して、相沢君は言い放つ。

「とりあえずさ、外に出ようぜ。ずっと同じ空気吸ってても同じ世界にしかいられないよ?」



彼の、あたしの手を握った手のひらは、大きくて、それでいて暖かかった。
それでも真冬の夜中、寒いを通り越して痛い風が吹き付ける。向かいの屋根には雪。
あたしはずっと着続けたパジャマ。顔は涙でグシャグシャで、髪も荒れている。

「寒いわ」
「ああ、寒いな」

普段着のように着こなす男の子用の制服が、なんだか懐かしさを感じる学校を、そしてそこにいる『仲間』を思い出させる。

「でもさ、あいつはもう寒さも感じられないんだろ?」

その相沢君の言葉が、彼がここに来た理由を告げていた。

「あいつは自分で望みもしないで死んで、もうこうやって季節を感じることも、ちっぽけな望みを叶えることだって出来ないんだな…」

思わず出かかった声が、空気によって止められた。
彼は誰にともなくつぶやいている。それは、彼の心にある傷を再確認するため。そしてその傷を痛めつけて、出来るだけ感覚を失くすため。
それは、彼自身の罪を罰として受けている証。

「……俺達は……なに……を……やっ……て……やれたん……だよ……」

肩が、震えていた。小さく、鋭い嗚咽が冷酷な風に響く。
 そんな彼は、気づいていない。彼の言葉が、あたしの心の傷も痛めつけていたということを。そして、それが彼と同じ傷であったということを。

強烈にあたしを襲う罪悪感。恥。静かにつもった雪が強烈なフラッシュバックを呼ぶ。立っていられない。妹がいたなんていう事実を認めなくちゃならない現実。
見えない何かと闘っている自分。

………ダメだった。一人でいることなんて、出来なかった。

「…相沢君」

寒さじゃなく震えている、彼の背中を抱きしめた。彼の傷を舐めるように、そっと。
「あの子、貴方が泣いていたら幸せなの?」

その言葉は、麻酔のように彼の動きを止めた。静かな、寒空が視界に入る。
次の瞬間には、彼の腕があたしの躰を抱きしめている。

「香里……今夜だけは、一緒にいてくれないか?」

彼は、そうあたしの耳元で囁いた。
分かった。彼もあたしも、互いの傷を舐めあうことを望んでいる。
そして、お互いの弱さを見せ合うことも。

だからあたしは彼の胸で思いっきり――――――泣いた。

もう、頼りない明かりも、刺すような寒さも、そこにはなかった。




「起きろ、香里」

耳元で囁く男の子の声が、あたしを朧気な夢の世界から現実へと引き戻す。
眩しい、と思うのは昨日カーテンを閉め忘れたせいだろうか。朝の日は冷たかったはずの空気を暖める。

「……あれ」

布団の中の温もりが、自分が生まれたままの姿だったことを知らせる。
――――――そして思い出される昨夜の出来事。まるで自分が自分じゃなかったみたいな感覚すら覚えてしまう。

「早く起きろっての、全く。遅刻するぞ」

気がつけば布団の上であたしの寝惚け顔をのぞき込んでいるのは、制服をしっかり着こんだ相沢君だった。目を見て話すのが恥ずかしくなる。
なにせ、あんな夜の破廉恥な自分を、弄ぶ彼が記憶にいるから。

「あ、うん」
「俺、先に下行ってるから。あ、あとそれから――――――」

なんだか痛めつけた傷の感覚が戻ったような気がする。

ベットの中であんなに優しかった相沢君が何故だか今は他人に見えてしまう。それともこれが本当のあるべきポジションなの?
あたしはいつまでもひとりぼっちで。心の傷という罰を受けて。彼はつかず離れず、自分の傷を癒す。

「昨日は可愛かったぞ」

言い逃げ、とでも言うのだろう。自分でも分かるぐらい真っ赤になるあたしを尻目に、ドアを開けて逃げていった。

そんな彼の姿は、おかしな不安なんて一瞬で消し去ってしまった。




久々の学校は、予想通り何も変わっていなかった。
それはあたしがいつも必要以上に仮面をかぶっていたせいかもしれない。
いかにも事情を知っています、と言わんばかりの先生が何となく分かった顔をしているだけ。
大抵のクラスメートは風邪かなんかだと思っている。

「それで、どうしたの香里?」

名雪がふとしたタイミングで話しかける。
さすが親友、といったところ。いつものほほんとしている名雪からは想像も出来ないほど鋭く突いてくる。
まぁ、相沢君の様子を一番見てるからかもしれないけど。

「うぅん、大丈夫。何でもないから」
「それならいいけど……何かあったらすぐ相談して、ね?」

まるで子供をあやすような名雪の言い方がなんだか気に障る。
というかそこで気にするから子供みたいなのかな。

「あら、あたしが心配してるのはお寝坊さんの将来よ、名雪」
「う、うにゅう」

奇妙な鳴き声を上げる名雪。それを見守っていた北川君が堪えきれなくなって吹き出す。そんな、忘れていた日常。
周りに仲間が居てくれるんだって、実感できる瞬間。

「そうそう、一番迷惑してるのは俺なんだからな。朝の攻防でどのぐらい寿命が縮まったことか」
「あ、ひどーい祐一。これだって私努力してるんだよ?」
「……ま、まぁ遅刻するやつはどう頑張っても遅刻するっていうからな」
「北川、フォローにすらなってない」

ため息をつく相沢君に、名雪が笑う。
そして、彼が側に居てくれるという、ほのかな暖かさ。
あの子の―――栞の分まで生きて行かなくちゃ、という決意が、そこにはあった。



時は傷を癒し、そして記憶を過去のものへと遠ざけようとしていた。
雪が溶け始め木々がわずかながら芽生えようとする。だけどコートと朝の布団は手放せない、そんな季節の変わり目。
 
 過去は昔の事実。それは変えることの出来ない世界で、あたしが栞という妹を失ったことに変わりはない。
でも、そんな悲しい事実は、現在の幸せで覆い隠されていた。
愛する人が隣で笑ってくれている幸せ。


そんなあたしが、静かに栞の部屋の扉を開けたのは自発的な行為じゃない。
自分でも分かるほど顔色が良くなっていくあたしを見て、お母さんから頼まれたこと。

「出来たら、出来たらでいいんだけど……栞ちゃんの部屋、見てくれる?」

不承不承うなずいた、あたしの顔を見て一段とお母さんが不安げになったのをよく覚えている。
まだ、病人扱いなのかな、あたし。

たしかに、栞のことでずっと悩んでいて。
栞が死んでからもその苦しみにずっと耐え続けていたから。
病人のような扱いを受けても仕方がないのかも。

「さてと、まずは何から…」

少女漫画の世界のような、主人のいない女の子の部屋。
閉め切られたカーテンに大きな人形。綺麗に整頓された机にあたしのお下がりのデスクランプ。
どこからともなくあの子の匂いがする。
よみがえる記憶と、あの子と過ごした過去の思い――――あれ?


「…………あれ………思い……出………?」


奇妙な現象が起きていた。
曲がりなりにも学年でトップを維持してる身。そんなに記憶力が悪いとも思えない。
それなのにこの、おかしな感覚は何なのだろう。

美坂香里として生を受けてから16年間。
いくら病弱な妹を持っていたとしても子供心に刻み込まれるイベントはあったはず。

あたしの小学校の入学式。
真新しいランドセルに嬉しそうな親たち。訳も分からず祝福してくれるあの子。

そう、たしか海水浴にも行ったっけ。
初めての海に興奮気味のあの子に、それを見て笑う両親。
夜は朧気な花火の明かりの中でみんなが楽しんでいたのもよく覚えている。

運動会、学芸会。着実に記憶の中のあたしは大きくなっていく。

中学校。そして高校と。
もちろん栞の死期が迫るにつれて両親も、あたしもノイローゼになってしまった記憶はあるけどそれでもいい思い出はあるはず、なのに。

それらは、まるでただの空箱にしか見えない。
中身のない、昔はあったのかもしれないけれどいつの間にか失くなってしまった箱。
箱自体は思い出で彩られているのに――――

なんとは無しに虚無感を覚えた。


そんなことを栞の部屋でやっていたってしょうがない。あたしの部屋よりも綺麗な部屋を無理矢理にでも整頓する。

「………あれ、これ」

埃のうっすらたまった本棚に、見慣れない厚い冊子を見つけた。衝動で開いてみる。
あの子が作っていたアルバムだった。


小学校の入学式の写真。
桜の舞う、懐かしい学校で一家四人が写っている。

海水浴。
照りつける日差しに、水遊びを楽しんでいる栞。

運動会も、学芸会も、栞は丁寧に思い出をアルバムに仕舞っていた。
そんなあの子との思い出に浸りながら、だんだんと疑問の念が湧いてくるのが分かった。



「あれ、あたし、笑ってない…」




入学式も、海水浴も、運動会も学芸会も。
栞が笑っている。お父さんも、お母さんも笑っている写真ばかり。
それなのに、あたしはどの写真に写っていてもふくれっつら、無表情。
時には写ってすらいないこともある。



――――写真は、あたしの心を開けていく。



こんなに無表情だったはずはない。
それでも、大きくなって少しだけオトナの世界を知った―――義理や、建前というものを知る歳でも、あたしは笑っていない。



――――その、入っていないはずの心の空箱には



今でも思い出せる。
入学式も、海水浴も、運動会も学芸会も。
あたしは栞と、お父さんと、お母さんと、楽しそうに笑って……笑って……いた?



――――あたしが無意識に封じ込めた、過去。



手に取っていたアルバムが足に落ちた痛みは、もう感じなかった。




しとしとと、雨が降っていた。



 たしか、あの時もこんな雨が降っていた。上がるでもなく、泣き出すように強く降るでもない、終わりの見えない雨。
ああ、そうだ。たしか栞が珍しいぐらいの高熱を出して、慌てふためいた両親が病院に連れてって、あたしはご飯も食べられずに暗い家の中で不安におびえていた。
お父さんと、お母さんが深刻な顔で話し合っている。栞はいない。

やがて二人の声量は強くなり、怒号へと変わる。
小さかったあたしは泣き出した。それは頼って行かなくちゃならない人が怒り、悲しむ様子を見て不安になったから。そしてお母さんはヒステリー気味に声を上げ、お父さんはそれに苛立てた声を返す。

パンッ、と頬を叩かれた。
痛みよりも驚きに涙を止めたあたしを、泣いているお母さんの手が叩いていた。
一瞬だけ罪悪感を感じたらしいお母さんはそれでも何も言わずに、もうあたしの方を振り返らなかった。


子供心に、なんとなく分かった。
自分が愛されていないんだって。


たしかに、物覚えは早かった。親からしてみれば手のかからない子だったと思う。
そんなあたしにだって、親に甘えたい子供心の日々はあったはず。
でも、あたしのそんな時期は栞の恵まれない運命と、それに振り回される親の苦悩の時期とぶつかっていて、あたしを見てすらいなかった。

それでも、褒めてもらうために何でも一番を取れるように努力した。
そんな努力の毎日の生活だけで一杯一杯になっていたあたしが、栞の、残り少ないと宣告された運命なんて理解できるはずもない。

だんだんと栞のことでノイローゼになっていくお母さんは、あたしに完全に関心を持たなかった。
普通の家庭にもよくある、どんな子供っぽい無邪気な喧嘩でも「お姉ちゃんだから」の一言であたしに非があるようになって。
時には荒っぽく手まで出るようになって。生みの母に憎しみを覚えて。

そして――――あたしは滅多に笑えなくなった。
お母さんの顔を持つために、栞のご機嫌取りに、顔の筋肉だけ動かして笑ったように見せてもあたしは心から笑っていなかった。




傘は要らない、けれども1時間も外にいれば濡れてしまう小雨。
雨の日は夜明けまで語らう恋人たちはいない。これ幸いと公園のベンチに腰掛ける。

「ふぅ…」

だんだんと、自分が分からなくなってきた。
栞のことで精一杯になって。自分のことなんて考えられなくて。
気がついたら、側で微笑んでくれる人がいた。

でも。
愛されることを知らなかったあたしがいて。
そんなあたしを心から愛してくれる相沢君を心から――――心から愛せるの?

答えは、出したくなかった。否、出せなかった。
あたしの心はそんなことを考えさせてもくれない。

雨はしとしと降り注いでいた。いつ上がるかも分からない、あの日の雨のように。



「あれ、もしかして香里ー?」

 何時間が過ぎただろう。服はびっしょり。髪はもう目も当てられない状況になってきても、家に帰る決心が着かないで何も見えない雲ばかりの空を眺めていた時。
なんだか懐かしい声があたしを呼ぶ。

「あ、やっぱり香里だー……ってどうしたのこんなところで?」

その疑問はおっとりした名雪でさえも持つものらしい。ま、確かに親友が雨に濡れて暗い顔してれば誰だって心配するか。


「そんなこと言う名雪はどうしたの?」

「うん、ちょっと走りたくなっちゃったから」

これぐらいの雨だったら大丈夫だと思ったんだけど、と名雪が笑う。あたしと同じような質の髪はぐっしょり。
そして薄暗い街灯に照らされた名雪の顔は、まるで泣いているように見えた。

「走りたくなったって、あなたここまで」

名雪の家からは反対方向だから相当な距離があるはず。

「私陸上部だよー、しかも部長さん。……でもね、時々あるんだ。悩んでるときとか、辛いときとか。思いっきり、何も考えられないぐらい走りたくなること」

濡れたベンチに腰掛ける名雪。いつもの、のほほんとした姿からは想像も出来ない名雪のしっかりとした口調。

「香里も同じ………だよね?」

ああ、困った。なんでいやなところで鋭いんだろう。
無言を肯定と受けたのか、名雪が喋りはじめる。


「でもね、悩んでるときってそういうものだと思うんだよ。思い切って何かやって頭空っぽにしたり、何にもない空眺めて心空っぽにしたり」

「とにかく空っぽにすればいいみたいね」

なんでだろう、やっぱり名雪の前だと少しでも無理したくなる。

「うにゅ、一括りにしないでよ香里ー」

そうやって膨れる名雪の頬をつつく。彼女はすぐに楽しそうに笑う。
いつもそう。あたしは笑わせて、名雪は笑って。



…………

「あ、そろそろ帰らなきゃ…ね、香里も遅いからもう帰った方がいいよー」

世間話に学校の話なんてのを織り交ぜながらどのぐらいが経っただろう。
名雪が少しだけ眠そうな顔を見せている。


「ね、名雪。ひとつ聞いていいかしら」

「うん、どうしたの?」

こんなことを聞くのはどうかと思うけど。

「名雪は……名雪は何に悩んでるの?」

「……………」

「あたしは……あたしがここに来たのはなにかに悩んでたわけじゃないの。自分の、昔のこと思い出して……人のこと信用できなくて、愛されてないんじゃないかって疑心暗鬼になって、自分なんて人間居なくたっていいんだって飛び出してきたの」

「あのね、香里」

悟られないように抑制した声が、いつものあたしらしくない声だったみたい。
名雪が静かに、それは静かに言葉を返す。


「あたしがここに来たの、祐一のことだよ」

「……え」

「祐一ね、ずっと何かに思い悩んでて、ろくにご飯も食べなかったの。でもね、やっと落ち着いて普通の祐一に戻ったと思ったら、今度は心ここにあらずなんだもの」

あたしは知っている。その原因を。
いや、あたしにその原因の一端があることも痛いほどよく分かっている。

「でもね、今日分かった………香里、祐一と付き合ってるよね?――――多分、その……」

ふぅ、困った。なんでこの子はこんなにまでイヤなところで鋭いんだろう。
でも答えないわけにはいかない。

「………ええ」

「ふふっ、そっか……あのね、香里……大丈夫だよ。祐一は、香里のこと愛してるよ」

従姉妹の私が言うんだから、と明るく笑う名雪。
でも、その表情はどう見ても無理をしていた。

「祐一は、香里のこと愛してるから……だから、香里も祐一を愛してあげて、ね?」

そんな優しい母親のような名雪のセリフに、ただ機械的に首を縦に振るしかないあたし。

「あ、もう行かなくちゃ。――――じゃあね、香里」

「……ねぇ、名雪。あなた………相沢君のこと………」

名雪が止まる。世界が止まる。

「好きだよ……私、祐一のこと好きだよ………だって……七年間も待ってたんだもの」

声をかけられない。なんだろう、この締め付けるような気持ちは。
小雨とは明らかに違う、大粒の涙が名雪の瞳からこぼれ落ちる。

「だから……だから、祐一のこと幸せにしてあげてっ」

あたしに背を向けた名雪が、どんどんと小さくなる。
その、寂しげな背中に、あたしは掛ける声を見つけられなかった。




びしょびしょに濡れた子犬みたいになったあたしに待っていたのは、お母さんの愚痴だった。
もうすでに風邪を引いているみたいな頭の中で、たった一言だけ覚えているお母さんの言葉。

「あなた、お姉ちゃんなんだからしっかりしなきゃ」

いったい、誰のお姉ちゃんなの?
栞はもういないのに。

ああ――――あたしはやっぱり「香里」じゃなくて、「栞のお姉ちゃん」なんだ。
そう、朦朧とした頭の中で涙を流した。




3日後。
風邪だけは治して、なんとか制服に袖を通したあたしは未だ暗い顔をしていた。
学校という環境が怖いんじゃなくて。
そこにいる「友達」に会うことが辛かった。
彼らがあたしのことを本当に「友達」と認めてくれているのか。
そして、相沢君はあたしのことを愛してくれているのか。

それは、愛されなかった自分に向けるべき疑心暗鬼。


「あ、香里おはよー……って、大丈夫ー?」

ずいぶんと酷い顔色をしていたみたい。偶然校門の前で名雪に声を掛けられる。
相沢君がいないことに、なんとなく後ろめたい安堵感を覚える。

「ええ、なんとか……名雪は?」

「私は昨日から来てたよー、回復力あるから」

でもやっぱり風邪引いちゃったね、と笑う名雪。
いつものように表面だけ笑顔を見せるあたし。
でも、その眼が泳いでいたのを名雪は逃さなかったらしい。

「祐一なら、もう少しで来ると思うよ…………って、ほら、来た来た」

時計を見ると確かにギリギリな時間。
向かいから相沢君が走ってくる。とん、と背中を押されて前に出るあたし。
それでも、息を切らせながら走ってくる彼の顔を直視できない。
あたしの中にある罪悪感と、そして彼への疑心暗鬼。


「はぁ、はぁ、はぁ、間に合った……って、香里……?」

そこには心底驚いている、相沢君の顔があった。


「……おはよう、相沢君」

「……風邪、もういいのか? 心配したんだぜ」

「ええ、もう大丈夫みたい。ありがと……名雪、遅れるわよ」

「あ、う、うん」

名雪を引っ張るように相沢君に背を向けた。
そして、このときなんとはなしに心に決めたこと。

――――今までの「美坂香里」を演じ続けようと。
それが誰も傷つけずに済む方法であると。あたしは信じ切った。




 そして、何も起きずに放課後を迎えた。
ここ何日かの事情を説明するために教員室まで呼ばれ、あっさりと話をつける。
だけど、戻ってきた教室にすでに人の気配はない。帰宅組は帰ったのだろうし、部活に行く連中はもう着替えて外に出ている。
夕日が差し込む教室は、なんだか寂しい匂いがした。


「なぁ、香里……ちょっと、いいか?」

さっさと帰ろうと思って荷物をまとめている後ろから、いつの間にか教室に入ってきた相沢君が声を掛ける。なんとなく心に残る罪悪感を思い出させる 。

「なに、かしら」

相沢君が後ろ手でカシャ、とカギを閉める。もう逃げ場はないと言わんばかりの形相。


「どうして俺を避ける?」

彼は、静かにそうつぶやいた。

「別に避けてるわけじゃないわよ、普通に」

「嘘だ」

一歩踏み込んでくる相沢君に、無意識に一歩下がってしまうあたし。
確かにあたしは逃げている。愛されていないという事実から。

「何か…なにか俺に非があるなら、言ってくれ。頼むから」

夕日と、二人の声以外音もしない教室。
まぶしい西日に彼の表情を伺うことは出来なかった。


「………怖いの」

「え?」

「貴方にとってあたしがなんなのか」

静寂が一瞬だけ広がる。

「そして、貴方が美坂香里を愛しているのか――――分からないの」

相沢君が、脊髄注射でもされるかのようにビクン、と動いた。

そう。あたしをあたしとして見てくれないことが一番怖かった。
栞が死んでしまったことの罰を受ける傷心を舐めあうためにあたしを抱く彼。
幼なじみの、七年の想いが見えない彼。

それはあたしの求めた相沢君ではない。
そんな相沢君は、あたしも知らないあたしの全てを受けいれられないだろうから。
あたし自身、そんな自分を彼に見せられないから。

ふっと。
彼の懐かしい香りがした。
腰に手が回っている。

「どんなに痛んだ羽根を持とうが、もしかしたらそれが躊躇して飛べない翼だろうが、そんなもん全部ひっくるめて香里を愛してる」

ぎゅっ、と力を強めてくる彼の腕に、決意を感じる。
あたしを守ろうという、それは誓い。

「だから、教えて欲しい。香里の暗いところとか、人に見せたくない部分も全部」

でも、彼の胸で頷いても、結局あたしは嘘をついていた。
彼が愛しているのは仮面をかぶった美坂香里。
本当のあたしは、あたしも見えない殻の中にいる。


心の箱には、まだ見えない――――見たくない過去がある。




また、しとしとと雨が降っていた。
 四六時中、答えの出ない答えを探して悩み続けていた両親に愛想が尽きて、部屋に籠もっていたのだろうか。真っ暗な廊下からは人の気配を感じない。
ギシギシきしむ階段の音と、規則的な雨音だけが家の中に響く。

「あれ、誰もいない……」

ちょっとした異変に気がついたのは、リビングに降りてきてからだった。
調子悪そうにソファーで伏せっていた栞に、その姿を悲しい目つきで見つめるお母さん。さっきまでいたはずの二人は、どこかあたしの知らないところに行っている。

急激に広く感じるリビング。
電気もつけない、雨音のする暗い空間には人のいた匂いがしなかった。


孤独。
そんな実感の無かった言葉が、急にあたしを襲った。

とたんに、ここにいることが怖くなる。
どんなにあたしのことを分かってくれなくても、愛されなくてもいい。
誰か、側に、いて――――




 イヤな夢を見た。
まるで雨に濡れたように、首筋にびっしり汗を掻いている。
朧気な夢の中の記憶。

「孤独……?」

 夢の中で、そんな実態のないバケモノに畏怖を覚えている自分がいた。
思わず苦笑してしまう。
そんなものに畏怖を覚えるなんて、本当に小さな子供のすることだ。それこそ、親のいないベットが怖い子供。
あたしが、仮面を被った姿であっても孤独を感じるなんて。

 イヤな夢の残滓と、汗ばんだ体を風に流すために窓を開ける。ちょっと寒いかな、なんて尻込みする想いを振り切って外に出た。



 雪解けの風が吹く空は、体が芯から震えるほど寒くはなかった。むしろ心地いい。
澄んだ空を見上げる。これでもか、と自己主張するぐらい明るい月に星々が瞬く。


孤独。
引いていく汗を感じながら、その言葉の深さに一瞬だけぞっとした。
遠く、それは遠く――――どんなに手を伸ばしても届かない月。見ているだけで吸い込まれそうな星空。
そして彼のいないベランダ。
一刻も早く誰かの腕の中に逃げ出したくなる、そんな感覚。


遠い昔に味わった感触。記憶。そして恐怖。
愛されないという事実を無意識に消したあたしの、さらに識域下の感情。
形の見えないソレは、朧気ながらに輪郭を示し始めていた。




「おはよう、相沢君」

「………ああ、おはよう香里」

美坂香里の日々は、何事も起きていないように進んでいた。
もうそろそろコートを手放せそうな、春先にはまだ早い冬の終わり。
雪を溶かし、新しい命が芽生える季節。

「また随分と顔色が悪いけど、どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

反応の薄い彼の青白い表情が、そんな春先には不釣り合いだった。
でも、ちょうどチャイムが鳴って規則正しいタイムスケジュールが始まってしまう。
渋々と、自分の席に戻る。

こんなのって無いと思う。
仮にも恋人同士を自称して、『全てを知りたい』なんて今思い出したら恥ずかしくなるようなセリフを堂々と吐いたのに。
自分のことになるとすぐ自分で抱えてしまう、悪い癖。それはあたしもなんだけど。
後ろから見える彼の相変わらず思い悩んだ顔を見ながらそう思った。




 彼が暗い顔を続けたままあたしの名前を呼んだのは、帰り支度をすませた放課後。
案の定他に誰もいない教室に、二人っきりのシチュエーション。開けられた窓からは春の息を感じる暖かい朱色の風。

「香里、聞きたいことがある」

昨日までのどこか春の陽気漂う明るい声はどことやら。どことなく冬の寒けさを感じさせる声。

「あら、なにかしら」

仮面の中のあたしは、至って平然とした顔で答えていた。
反面、空恐ろしくもある。


「お前の昔の話を聞いた――――名雪から」

その、発するのも辛そうな言葉を聞いたとたんに空気が変わった。息が出来ない。苦しい。
「…………」

仮面に遮られたあたしは何も話すことが出来なかった。
相沢君が続ける。

「なぜ話してくれない?」

「……貴方には何を言っても分からないから」

その答えは、意図せず先の尖った針で彼を突き刺した格好になった。
同じ場所で彼はこう言っていたのだ。
あたしのことを、全部知りたいと。

「俺が知っているのは仮面の」

「そう、仮面のあたし」

あたしは努めて冷静に、残酷に。
彼にとどめを刺していた。

「貴方にはもっと隠しておくつもりだったの、それがあたしたちにとって一番だと思ったから」

「…俺があんなに真剣になってたのは」

「あたしの方が一枚上手だった。それだけのことよ。でも名雪は想定外だったわね」

「……いつまでそうやって逃げるんだ、香里」

静かにあたしを見つめる彼の瞳が、睨んでいるわけでもないのに恐い。
そんな得体の知れない恐怖を感じながら仮面のあたしは答えた。

「これはね、相沢君……あたしの問題なの。」

じっ、と彼と同じ表情で彼の瞳を見つめる。
あたしは、

「だからお願い―――放っておいて」




未だ、分からないことがある。
恐怖や、憎悪や、そういったマイナスの感情に押しつぶされたなにか。
はっきりとは見えない、靄のかかったもの。


 なんら意識もせず、栞の部屋に―――主のいない部屋に入っていた。
お母さんがこまめに掃除でもしているのだろう。ホコリひとつ無いその部屋に、なんとなく虚無感に近いものを覚える。
何気なく、机の引き出しを開けた。

「お姉ちゃんへ」

あの子の、懐かしさを覚える字が静かに踊っている白い手紙。
反射的に封を切った。



お姉ちゃんへ

隣で寝ないでお勉強しているお姉ちゃんのことを考えると、なんだかちょっと不思議な感じがします。

でも、お姉ちゃんがこれを読むとき私はもういません。

多分、お姉ちゃんが泣きながら引き出しを開けた時だと思います。違っていますか?

そんな些細なことも分からないなんて、なんだかちょっと寂しいですね。



お姉ちゃんにお願いがあります。

ひとつは、私がこういう運命だということに責任を感じないでください。

お姉ちゃんの所為でも、他の誰の所為でもありません。

もうひとつは―――もうひとつはお願いじゃなくて……

そう、ドラマみたいに「遺言」にしておきますね。

私からの、お姉ちゃんへの遺言。


私の分まで、幸せになって下さい。




月明かりが差し込む、今は亡き妹の部屋で。
あたしは思いっきり泣いた。
あの子が最期に残した、そして最も言いたかったであろう言葉。
そしてあたしが心の奥底に秘めていた、靄のかかっていたキモチ。




「おはよう、名雪」
「…香里?」

 寝惚け眼の親友が、ドアノブを握ったまま硬直していた。
それは仕方がないのかもしれない。一緒に登校するのをもう何年か前に諦めた親友が家の前に立っているのだから。
すっぽ抜けたような青空に、小鳥のさえずりが響く。

「どうしたの、香里?」
「うん、ちょっと……ね」

明らかに眠そうな瞳が、動かない思考回路をよく表している。
時刻はまだ7時前。ここから走れば陸上部の朝練に間に合うという時間だろう。
本当は時間を使わせたくないんだけれど、変に鋭い名雪はあたしの目を見ていった。

「大丈夫、お母さんに言えば1秒だと思うよ」
「あ…うん、ありがと」

インターフォンの前に立って深呼吸。

「頑張ってね、香里」

背中にかけられる名雪の声が、妙に大人びていた。



「夢だ夢だ、夢だと思いたいというよりもむしろ夢以外の何物でも……」
「あら、失礼ね相沢君ったら」

あたしだって驚くだろう。
起きたら目の前に制服を着た女の子が自分の寝顔を覗き込んでるのだから。
ちなみにほっぺたに軽いキスをしただけ。

「……なぁ、香里……これ」
「え…?」

彼が握っているのは、あたしが昨日見つけたものと同じ白い手紙。
表には、ただ一言「祐一さんへ」と。

「天使からの贈り物だよ、香里」
「しお……り……」

思わず泣きそうになるのを必死で堪える。

「お前はさ、決して一人ぼっちじゃなかったってコト。愛されてるとか、そんなこと以前にずっとお前を見ていた妹を忘れてたんじゃないかな?」

たしかに、忘れていた。
取り返しのつかない、姉としての歯がゆさに思わず身震いしてしまう。
そんな折に、あたしの体を抱きしめる相沢君。

「だったら、栞の想いを叶えてやるべきだよな」
「……ええ」

ほら、と相沢君が見せてくれた、栞からの手紙。
最後の行に書いてある文字は、涙で潤んだ瞳でもなんとか読むことが出来た。



「お姉ちゃんを、幸せにしてあげてください」



遅刻、ということはもう考えないことにした。
春の陽気の中、腕を組んで歩く制服二人組は一体どういう風に見えるのか。
でも、今日ばかりは周りに目を配る気にはなれなかった。

「なぁ、香里」
「うん?」

鞄を小脇に抱えた相沢君が、綺麗な―――それは綺麗な青空を見ながら言う。

「お前はさ、人に愛されたかったんじゃなくて」

ああ、なんだか彼の言いたいことも、その答えももう知ってしまっている気がする。


「人を―――愛したかったんじゃないか?」


そう。
結局のところ、人を愛したかった。
本当のあたしというものをしっかりと受け止めてくれる、そんな人が欲しかったのだ。
そして今、目の前にいる、この人を。

さてと、仮面を剥がれた本当のあたしは、どんな答えを言うだろうか。
そう。ここは少し恥ずかしいけれど思い切って。


「ええ、だから―――愛してるわよ……祐一」


あっけに取られている相沢君の表情を、悪魔的に眺めてすぐに視線をはずす。
透き通った青空に、栞の笑顔を見た気がした。
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